対決編の時代
CAPA「対決編」は、岩月 尚さんと二人でやった企画です。1991年頃。
手元に残っている記事は下記10本。左は、初回の「望遠VS広角」。右が岩月さん(鼻髭は自毛)、左は私(鼻髭は黒テープ)です。髪の毛がいっぱいあった30歳頃。
「望遠レンズVS広角レンズ」
「超好感度フィルムVSストロボ」
「カラー写真VSモノクロ」
「湘南海岸ギャルハント 夏物語!!」
「モデル撮影会 ポーズ大研究(東京綜合写真専門学校・夏期講座)」
「爆裂スナップ都市宣言」
「標準レンズを使いこなせ! 絞り開放とF22のポートレート対決ぢゃ~」
「六畳一間でスタジオ撮影だぜい!」
「赤外線大作戦」
「未来派カメラマンVS山の手OLD写真ボーイ」
とまあ、写真技術を極端な2路線に分け、面白おかしく紹介していく内容でした。企画を通してくださったのは高田さん、編集部の方々の協力も得て、本当に楽しい仕事でした。カラー8ページ~モノクロ6ページくらい。ボリュームも結構ありました。
岩月尚さんは同年代で、会社員時代に買った「太陽」の太陽賞候補の一人として記憶に残っていた方。写真学校の先輩(私が入学した時にはすでに卒業していた)でもあり、フォトジャポン編集部にいた頃から出入りを始めた自主運営ギャラリー「さくら組」で初めてお会いしてから、お近づきになりました。彼は風俗関係の撮影もしていたので、やや興味本位で何回かアシスタントをさせていただいたこともあります。そんなこんなで、次第に憧れの「太陽賞候補者」と仲良くさせていただくようになった次第。
で、きっかけは忘れましたが、CAPAの企画に参加していただいたのです。
当時の彼は、末井さんが荒木経惟さんと出していたちょっとエッチな写真雑誌『写真時代』で連載を持っていた売れっ子でした。売れっ子というのはちょっと違うかもしれませんが、写真雑誌デビューが早く写真学校の同期あたりでは一番有名だったと思います。連載タイトルは「現地調達!」。
日本全国津々浦々の駅に降りたった瞬間からが記事の始まり。駅周辺や観光地を歩き周り、これぞと思った女の子に声を掛け、あれこれ口説いてラブホテルに連れ込み、ヌード写真を撮影する。その過程を自撮りを含めて隠しごとなく掲載していきます。毎回、4~6ページくらいだったか、写真でつくる双六のようなレイアウト。キャプションも彼が書き、ちょっとセンチメンタルな性格が余すところなく表現されていました。というものの、単純にはナンパものであって、今やったら完全にアウト! でしょうが、これが許された時代です。
岩月さん自身かなり純情なタイプであって、悪さをするということはなく、それが多くの読者の共感を呼び、私も連載のファンであり続けたのです。太陽賞候補の「夏のお嬢さん」も、アプローチの仕方はほぼ共通しているんじゃなかったかな。いや、確かこの作品を末井さんに見せたところ、「現地調達」の企画が浮かび上がったと聞いたことがあるような。
企画内容だけから見ると不純な感じがプンプンするわけですが、女の子側にも「雑誌に出たい」という欲求があったりして、そういう駆け引きもまた魅力でした。
ある日、岩月さんとお酒を飲みながら写真の話をしていたときに、次のような回があったと聞き、深く感じ入ったことを思い出しました。
「声を掛けて、ラブホテルに入った女の子と人生の話になってちゃってさぁ。その娘がいうには、この日の一週間くらい後に結婚することになっているっていうんだ。当然、かなりびっくりするわけ。でよくよく話を聞けば、その彼とはまだそういう関係になっていなくて、しかも他の男の子と深くつきあったこともないっていうんだよ。それで彼と結婚したら、他の人とそういう関係をもつことは絶対できない。だから今、結婚前に、他の男の人としてみたいって。」
その後どうなったかは想像にお任せしますが、この女の子の考え方は理解できましたし、ちゃんと耳を傾ける岩月さんのやさしさも立派だと思いました。自分にはこういう懐の深さはないような気もしましたし。
『写真時代』は、アサヒカメラや日本カメラにはないアプローチからの写真論的な話題の掲載も多かったですが、基本的にはエロ本の仲間として扱われていました。なので、ここでの連載を岩月さんの両親は知っているのか? という話題になった時、「父親は知っていて、毎月買って応援してくれているんだ」という返答にも面を食らいました。私の親なら、泣いて辞めてくれ、といわれそうだなぁ、という思いが駆けめぐり、変わった親だなぁとも感じながらも正直うらやましかったです。
そうそう。写真でこれから何をやっていくか? みたいな話になった時、内容はまったく覚えていないのですが、「そんなことをやったら、「上」が許さないだろう」というようなことを私が言ったのです。「上」とは、上役、上司、立場が上の人といったところから、評論家、編集者、学校の先生、的な意味合いで、何の気兼ねもなく使ったのです。ところが岩月さん、こう切り返してきました。
「その「上」って誰なの?」
・・・・・・・・・。二の句が告げられないとは、まさにこのことで、爾来、こういう文脈で「上」という言葉を使うことはなくなり、そういう関係を認めなければならない考え方自体にもちょっと距離をおくようになりました。
そんなこんなで、いろんな面で助けていただいた方なのですが、CAPAの仕事がなくなってから、会う機会はほとんどなくなりました。数年後、共通の知り合いに、その後を知らないか訪ねたこともあるのですが、行方知らずのまま今日に至っています。WEB上には、当時の仕事や掲載された雑誌が出るだけ。できうるなら、もう一度お会いして、写真の話をしてみたいとは思うものの、彼はもうそういう気にはならないのかもしれません。
30年前は、はるかに遠すぎる日々であって、このままそっと忘れ去られるのが幸せということも少なくはないのでしょう。
私は私で、自分に都合よく話を蒸し返しているわけですが・・。