番外篇 2. 「写真表現」を考える

似顔絵 「写真を使って「私」を表現することができる」、あるいは、「写真家とは表現者である」といった謂(いい)が、最近ではごく一般的に理解されるようになりました。
 しかし、少し深く考えてみると、これらは少々奇妙なことだとも言えます。なぜなら、写真に写っているのは風景やスポーツや料理や赤の他人だったりの “被写体” であるのに、「そこに写真家(撮影者)の「気持ち」も写っている」というのは、どことはなしに釈然としない話でもあるからです。
 でも、事実、一枚の写真にその写真家の「気持ち」を感じとれることがあります。そうなると「写真表現」とはいったい何なのでしょうか ?
 これを考えるには、撮影者自身が写真に込めた「気持ち」ではなくして、写真を見る人の「気持ち」のあり方を探ってみるのが、早道かと思います。

1. はじめに — 3 点の作例写真を題材に……

 「写真表現」を広く捉えようとすると、例えば写真の 160 年余りの歴史があり、カメラやフィルムなどの感材の歴史から現代の技術水準といったものまで考えなければなりません。
 加うるに、国や地域などによって異なる写真に対する意識の問題をも含むことになります。
 いくらなんでも、これらの全てについて考えることは私には無理です。

 ですから、ここでは、写真を撮影した私たちが自分自身でそのイメージに「いいな」を感じる気持ちはどこに起点があるのか ? そしてその写真を見た人も同じように「いいな」を共有するには何が必要か ? といったことを考えてみたいと思います。
 この目的のために、とりあえず 3 点の作例写真を準備しました。

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<作例写真 A.>


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<作例写真 C.>

 「とりあえず」と書いたのは、これらの 3 点でなくても構わないということです。風景写真でも、スポーツ写真でも、報道写真などでもいいのです。つまり、ここで考えているのは、写真の具体的な内容ではなくして、「写真の見方の形式」といったものなのです。


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<作例写真 B.>

 できうるならば、今回の記事を参考にして、皆さん自身が皆さん自身の「気になる写真」について考えてみて欲しいと思います。そうすることで、皆さん自身の写真表現の幅がより広く深くなっていくに違いありませんから。

2. 「写真」のイメージ

 「写真」と聞いて、皆さんはまず何をイメージするでしょう。ある人はカメラやフィルムを思い、ある人は芸術的名作を思い、そしてある人は有名な写真家を思うかもしれません。

 私たちが写真に期待するものは、人それぞれでかなり異なります。しかし、まったくてんでんばらばらなことを思っているかというと、決してそんなことはありません。写真というと、どこの国のどのような人でも、同じようなイメージを思い浮かべるはずです。
 「写真」の定義は、例えば「広辞苑」(岩波書店)には次のように記載されています。

  1. ありのままを写しとること。また、その写しとった像。写生。写実。
  2. 物体の像、または電磁波・粒子線のパターンを、物理科学的手段により、フィルム・紙などの上に目に見える形として記録すること。また、その記録されたもの。普通は、カメラを用いて、物体の像をフィルム上に作り、それを感光させ、現像処理をしてネガを得、これを印画紙に焼き付けて印画を得る……。

 すばらしい説明ですね。ただ、1.と2.は同じ意味をもっているように見えて実はここにこそ、決して等号(=イコール)では結ぶことのできない深い溝があります。そして、この溝にこそ、写真が「気持ち」の表現として成立するか否かの境目が隠されています。

2.1. 写真の対象 —<作例写真 A.>を題材に……

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<作例写真 A.>

 写真は、目に見える対象(被写体)なら、まずたいていのものが、ほぼ見た目通りに写ります。
 極端な話、全自動カメラのシャッターボタンを押すだけでそれが可能です。ここに、多くの人が写真に魅かれる動機があるでしょう。絵を描くような手間もなく、絵よりもより科学的に忠実な像を、簡単に手に入れることができるのが写真の大きな魅力です。
 つまり、写真に写っている像から、私たちは実物をより正確かつ具体的に把握することができます。しかし、いくら科学的に忠実な像だからといって、私たちが頭の中で描いているイメージに近いとは限りません。

 例えば、子供はかわいいものです。特に、自身の子供であればなおさらでしょう。しかし、写真に写った子供はぜんぜんかわいくない…….。そう思うことが少なくからずあります(自分自身の運転免許証、パスポートの写真なんかはいつだってそうですね)……「気持ち」は、科学に忠実ではありません。


Fig.1.

<左図:<作例写真 A.>の撮影状況>

比較的シンプルな照明(ライティング)。
C.) 一眼レフカメラ + 135 mmレンズ、
L.) ライトボックスによる照明(曇りガラスの窓からの
日昼の太陽光とほぼ同じ)、
R.) レフ板、
W.) 白バック(壁)

 だからこそ、私たちは写真の技術を学び応用し、子供の写真を撮るときであれば子供の御機嫌をとったり、光を(ライティングを)工夫したりして、子供の写真のイメージを、私たちの理念に近づけようとするのです。

 これらは写真表現の技法の基本といっていいでしょう。

 しかし、これらだけが写真表現ではありません。たとえば次の<作例 B.>、<作例 C.>は、私たちがふだん抱く理念としての対象のイメージを写そうとした写真ではありません。


2.2. 写真の技術 — <作例写真 B.>を題材に……

 写真の技術を少し広義に考えると、それは一つの画像処理ないし画像加工の技術といえます。
 画像処理や画像加工などというと、コンピュータによる作業を思う方は多いでしょうが、光学レンズを通して、現実を平面の像として投影し、それをフィルム上に定着する銀塩写真の過程こそが、既に一つの画像処理であり画像加工であることは忘れてはなりません。

・レンズの焦点距離(第 2 回目の「2.2. 焦点距離で何が変わる」参照)、
・絞り(値)(第 6 回目の「2. 絞りで何が変わる」参照)、そして
・シャッタースピード(第 5 回目の「2. シャッタースピードで何が変わる」参照)
を変えるだけで、写真写りは大きく変わります。
 さらに、フィルター調整(第12回目の「1.フィルターの表現効果」参照)、そして光の当て方を変える(第12回目の「3.2. 光を操る」参照)と、見た目とはまったく異なる写真を撮影することも可能です。

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<作例写真 B.>

 <作例写真 B.>は、「スリットカメラ」と呼ばれる種類のカメラを自作(改造)して撮影したものです。レンズの前を横切る動体だけが形あるものとして写り、静止している対象は流れたように写っています。
 見た目とは全く違う写真のイメージになっていることに、興味を覚える方は少なくないと思います。このような写真には、もはや対象を忠実に再現することは求めなくてよいところにこそ、面白さがあります。
 そして、こうした技術(下記参照)を自分なりに使いこなしてみたいと思ったとするなら、それこそが写真に感動した証といえるのではないでしょうか ?

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<作例写真 B.>の撮影手順

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  • 注意:これはカメラの正しい使い方ではありません。
  •  カメラが壊れることを覚悟して、あるいはすでに壊れたカメラを改造して楽しむ実験。
     手動巻き上げ・巻き戻しでシャッタースピードにバルブ(B)があるカメラを用意(機構的にこれらの条件を満たさないタイプが現代のカメラには多い)。
  •  カメラのアパーチャー部に、スリットを設ける。薄くて遮光性のある黒い紙などの部材を 1 mm 間隔(幅)程度のスリット(切れ目)を形成するように貼り付ける(写真:左)。
    注意:シャッター幕あるいはシャッター羽根は、触ると壊れます。
    注意:フィルムのガイドレールの高さ(段差)よりも、スリットを形成する黒い紙などの部材が低くないと(薄くないと)、フィルムの膜面に傷がつくばかりでなく、カメラの巻き上げ・巻き戻しなどに支障が出て壊れます。
  •  撮影はいったんフィルムを全て送った状態(=レンズキャップをはめて高速シャッターを切るなどして、そのコマが未露光のままで巻き上げた状態)からスタート。
     シャッタースピードをバルブ(B)に設定して、フィルム巻き戻しレバー(クランク、ノブ)を回転して(すなわち巻き戻しながら)露光(写真:右)。
     できるだけ等速で巻き戻すのがコツ。
  •  今回の実験で使ったカメラの場合、スリットの幅を 1 mm とし、巻き戻しレバー(クランク、ノブ)を 1 秒間につき 1 回転すれば、だいたい 1 / 30 秒程度相当のシャッタースピードに。

2.3. 写真の論理 —<作例写真 C.>を題材に……

 <作例写真 C.>は、かの銀座ニコンサロンにて先日開催した写真展:

「もう一つのスナップショット」

に出品した作品のうちの一点です(番外篇 1. の「2.2. 写真展を開く」の<写真15-2.>参照)。

 パッと見た目には、普通のスナップ写真のように見えるはずです。

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<図 3.>
「原色・補色のリング」

 しかし、写真(=オリジナルはモノクロプリント)のイメージの周囲の黒い縁取りに眼を転じると、これは 4×5 判カメラ(大判カメラ)で撮影した写真だということが、判る人には判ります。
 この独特の切り欠きは、 4×5 判(10.2×12.7cmサイズ)フィルムのカットシートフィルムホルダに特有のものだからです。  この事実に気が付いてしまった “違いの判る” 来場者のみなさんは、次の瞬間、「あの大きくて、重くて、被写界深度が(アオらない限りは)とても浅くて、ピント合わせも難しい大判カメラを使って、いったいどうやったら街頭スナップ写真が撮れるんだろう ? この写真家は、さぞや凄い撮影テクニック(と腕力)の持ち主であるに相違ない」と、考えを巡らされたようすで、異口同音に「これってシノゴの作品ですよねェ。いや〜、凄いですね〜」と感嘆なさる方々が少なくなかったのです。

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<作例写真 C.>の撮影機材:
4×5 判カメラセット ・4×5 判(フィールドタイプ)カメラと
レンズ(Nikkor W105mmF5.6 と
W135mmF5.6 を装着し撮影) ・ピントを確認するルーペ、
・カットシートフィルムホルダ(10枚入り)、
・右奥の黒い布が冠布(「かぶり」)。
もちろん、これらに加えて単体露出計や堅牢な三脚なども必要。

 すぐに種を明かしますと、実は、あらかじめ被写体になるべき人々の了解を得てから、4×5 判カメラを三脚に据え、冠布(かぶり)を頭から引っ被ってスクリーン(磨りガラス)上をルーペで覗いてピントを合わせ、それぞれの人にポーズを指定して撮影した=いわゆるひとつの「ヤラセ写真」です。
 だからこそ「もう一つのスナップショット」というタイトルなのです….。と聞けば、疑問がいっせいに晴れますでしょ。

 しかしそれでも、本職のモデルを雇ったりしているわけではありませんで、旅先の街角で普通に出会った人達ばかりなんです。こういうことができるのも、写真の面白さだと私は思っているわけです。

 そしてまた、「スナップのように見えて実は純然たるスナップではないといった、詐術的な写真の性質も、またたいへん愉快である」とまあ私は考えるわけです。

3. 写真を見る人の頭の中

 さて、一枚の写真を見るのに際して、そこには写っていないさまざまな情報をも併せて得ることで、そこに見える内容といったものが大きく変わってくることがお判りになったと思います。

 写真は基本的に、四角く囲まれた平面の画像でしかありません(もちろん立体視できる「ステレオ写真」もあります=第12回目の「2. ステレオ写真の愉しみ」参照)。
 そこには写真を撮影したときの気持ちや空気感、温度や湿度は原則として写っていません。だからこそ、写真を見る人に、それらまでをも感じさせることができるかどうかが、大きな課題になります。
 「いい写真さえ撮ればいいんだ」と思う方は少なくないはずですが、「いい写真とは何か ? 」が人によって(時代や国などによっても)全くといっていいほど違うから、写真表現は広さとそして深さを持ちえているのです。

 それでは次に、日本人の写真家としての私をサンプルとして、写真を見る時にアタマの中では何が起こっているのかを考えてみたいと思います。

3.1. 見る気持ち

 さきほどの 3 点の作例をパッと見たときの印象は、<A.>なら「まあ、可愛い」、<B.>なら「なんだコレ ? 」、<C.>なら「おおっ、カッコイイ」といったものが最大公約数でしょう。
 写真を表現として成立させるためには、「まず、目を引くイメージかどうか ?」が最も肝心でしょう。「かわいい」、「なんじゃコリャ〜」、「凄い」だけで、他の写真に目を転じられてしまったのでは、何にもなりません。
 どのくらいの時間、見る人の目を釘付けにできるかどうか !? 課題はここにあります。

 しかし、簡単そうに見えて、これほど難しい問題もないですね。
 男性の一人である私が街を歩いていて、非常に美しい女性を見かけたとします。眼は釘付けになります。しかし、私以外の男性にとっては、どうということのない普通の女性に見えるかもしれません。難しい……。
 ここでもし、その美しい女性が有名な人であったとします。そうすると、私も私以外の多くの男性も同じように眼が釘付けになるかもしれません。無名 or 有名かでも反応が違ってきます。これまた難しい……。
 あるいは、その美しい女性が、よくよく見ると知人とか肉親だったとしたらどうでしょう ? 我が眼を疑うか、幻滅するか ? 実に難しい……。
 いろいろ考え出すととにかく厄介ですが、とにかくも、「目を引く」、「目を釘付けにする」かどうか ?、「可愛い」とか、「何だコレ」とか、「カッコイイ」とかいった、そんな素朴な理屈抜きの印象をどれだけ深く長く、写真を見る人に刻み込むことができるか ? いわば、見る人の思考を捕捉・拘束する深さと長さこそが、表現者の求める唯一なのです。

3.2. 見る技術

 それぞれの作例の撮り方は先に紹介した通りです。ここで、撮影技術についての知識の多寡によって、写真の見方が変わってくることを経験したはずです。
 とりわけ、この連載をお読みになっている方の多くは、写真の技術により関心を抱いている方々でしょうから、撮影技術がどれだけ判るか否かによっても、写真の持つ意味が違ってくることがわかるはずです。つまり、どのようにして撮影されたのかが簡単に判ってしまうような写真は、私たちの興味をあまり引かないのです。なぜならば、そうした写真は自分でも撮影可能だからです。

 しかし、逆に、写真撮影には関心はないものの、写真を見るのは好きといった奇特な方が世の中では多数派なのです。多くの人たちは、その写真がどのような条件でどのような機材を使って撮影されたのかといったことよりも、写真のパッと見た目の印象や、写真のイメージそのものの謎解きの方に楽しさを覚えています。

 これは、芸としてのマジック(奇術)に例えれば理解が容易でしょう。
 多くのマジックは、種が判ってしまえばどうということはありません。だから、どんどん複雑怪奇、大掛かりな仕掛けへと進むというのが一つのあり方。
 逆に、タネは簡単なのに、手練の技や話芸などの芸で見せる(魅せる)マジシャンというのも根強い人気があります。
 どちらにしても、お客の側からすれば「いいように騙(だま)して欲しい」わけです。お客を騙すのに失敗するマジシャンというのは、原則として失格ですね。これは「芸の術」としての写真でも同じはずです。

3.3. 見る論理

 同じ一枚の写真でも、指紋がべたべたついたサービスサイズのプリントで見せられるのと、大きく引き伸ばしてきれいに額装して見せられるのとでは、まったく印象が違いますね(番外篇 1.の「1. 写真を飾る」参照)。
 あるいは、家の中に飾ってあるのと、美術館などに展示されているのとでも、見た目の印象は異なりますね。
 
 さらにいうなら、写真にどのようなタイトルやキャプションが付されているかや、写真の評論家が何を語るかによっても、写真への印象は変わってきます。
 私たちは普通、「写真は写真」と考えていますが、写真には常に言葉がまとわりついていることには注意しておくべきです。
 言葉がなければ写真を見ることさえ不可能だといっていいほど、写真と言葉の関係は大切かつ不可解な問題ですね。

 話かわって、私の家には猫が一匹いるのですが、”彼女” に彼女自身が写った写真を見せても、クンクン鼻を鳴らすだけで、写真に写っているのが自分自身であることを全く認識していないようすです。先日、テレビで見たところによると、言葉を少し認識できるオランウータンくらいになって、写真のイメージが何を表徴しているのかが判るようになるそうです。

 南の島に1960年代に行った写真家の話によりますと、未だ自分の写真を一度も見たことのないお年寄りがおられ(本当でしょうか ?)、自分自身が写った写真を手渡された時、彼はその写真を天地逆さまにして見ながら大喜びしたのだそうです。
 あるいは、数年前、ロシアの奥地に出掛けたテレビ局のクルーの話によると、当地のお年寄りをインスタント写真に撮ってそれを見せた途端、彼は恐れおののき、決して写真を手にすることがなかったといいます。

 2 つの逸話のお年寄りの方々が感じられたであろうような素朴な強い感動あるいは衝撃は、もしかすると私たちにはもはや得られないものかもしれません。ただ、写真を見ることには、言語的素質だけでなく、経験などによる教育も不可欠な要素であろうことは確かなようです。つまり、「どのような写真に出会い、何を考えてきたか」といった履歴が、どのような写真に感動するかを将来にわたって規定していく傾向があるようなのです。

4. おわりに

 「写真は何を表現するものか ?」と正面切って問われたときに、「それは「被写体」の表現である」と答えたくなる私は “弱い” 写真家の一人です。一方、世の中には、「写真は「写真家」を表現しているのだ !」と豪語できる、”強い” 写真家も数多くいます。
 どちらが正しいというのではなく、両方とも正しいのです。同じ正しさの中で、立場が少し違っているだけのようにおもいます。
  “弱い” 写真家と “強い” 写真家、いずれの立場をとるにしても、写真で何かを表現しようとした瞬間、写真家は表現者である以前に、人から見られる客体になることもまた確かな事実でしょう。つまり、写真表現の要(かなめ)とは、「どう見せるか ?」ではなくて、「どう見られるのか ?」にこそあるのです。写真を人に見せようとした時、どことはなしに照れ臭さを感じてしまう理由は、ここにあるものと私は考察しています。

 ともあれ、こうした写真による表現を通して、私たちの生活がより豊かになれば最高ですね。”豊かさ” というのもまあ、いろいろ考え方はありましょうが、「一人でも多くの人が写真を通して喜びを感じてくれるようになれば素敵だなぁ」と、私は思い続けているのです。それでは。

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