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写真学校に入った最初の担当講師が「春日昌昭」さんでした。

2015年に図書館でたまたま見つけた氏の本について記した文章があって、ここに再掲します。今読み返してみても、私の考えはまったく変わっていませんが、少しオブラートに包んだような書き方をしていてなんだかもどかしい。正直なところをいえば「春日さんは重森さんに殺されのじゃないのか?」という思いがずっと心の中で淀んでいるのです。「重森さんに連れ戻されなければ・・・」と。もちろん、これは公式の事実ではないし、重森さんを恨んでいるわけではありません。当時は、そうするしかなかったのだろうし、春日さん自身も納得済みのことであったのだろうとも思います。そして、もし、春日さんが紙芝居を続けていたとしたら、私は春日さんにお会いすることもなかったのです。

クラスメートの岡本、颯田、徳井、他数名で、銀座の「八起」という居酒屋で春日さんを囲んで飲んだことを今でも思い出します。

当時の「写真」といえば、私たちにとって「スナップ」しかありませんでした。それが、カメラ雑誌を含む趣味の写真の常道でもあり、写真学校の方針だった、そんな時代です。

むろん、今でも良質の「スナップ」で表現をしている写真家が少なからずいることを知っていますが、最近になって例えば牛腸茂雄さんがNHKの日曜美術館で取り上げられ「家族や友人、近所の子供など、見知らぬ人々のさりげないポートレートで知られる写真家」などと紹介されると、どこか強い違和感を覚えてしまうのです。まちがいではないし、確かにそう語るしかないのだけど、当時の写真家志願(職業写真家志願を除く)は、ほとんど全ての人が「家族や友人、近所の子供など、見知らぬ人々のさりげない「スナップ」を撮影していたのだし、そうするしか他に方法はほとんどなかったのです。

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『オリンピックのころの東京』-春日昌昭先生のこと(2015年8月28日)

武蔵小杉の図書館に本を返却しついでに館内をブラブラしていて、「最近のトピック」みたいなコーナーができていることに初めて気づきました。目を引いたのは、かつての「東京オリンピック」の日の丸デザイン。関連書籍が並ぶなか、これまた懐かしい名前に目が釘付けになったのです。

『オリンピックのころの東京』川本三郎-文、春日昌昭-写真。

川本さんについては映画関係の文章が好きで、この名前だけで写真学校時代を思い返すのですが、話題は写真の春日昌昭さん–今をさかのぼること32年前。私が東京綜合写真専門学校に23歳で入学した年の、1年の時のゼミの先生なのです。上京し右も左もわからなかった時代のことですから、忘れはしません。

春日さんは、1943年生まれ。私が写真学校に入学したのは、1984年ですから、当時、春日さんは41歳。–既に私よりも13歳年下。

ですので、この名を見た時点で、私がこの本の写真を見る視線は、「オリンピックのころの東京」から少し離れ、当時の春日さんが歩いた道を同じように歩き、なにを考えながらシャッター押していたのかを追体験するような感覚に陥るしかなかったかもしれません。なかなか思うように文章にできないのですが、ここに駄文を記しておきます。

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この本が出たのは、2002年。この出版は全く知りませんでした。

奥付を見ると、この本の写真は1962~65年に撮影されたものです。春日さんは20~22歳。その翌年(66年/23歳)に、浅草を撮影した写真で当時の写真家の登竜門であった「準太陽賞」を受賞しています。なにせ東京オリンピックの時代です。春日さん自身も、写真学校も、重森校長も、そして時代そのものもイケイケだったはずです。
しかし写真は、変わりゆく東京の未来を夢見るようなものではなく、失われつつあるかつての文化・生活を郷愁をもって見つめている、なんとなく重々しい雰囲気があります。それは、全編白黒写真だから、というだけではありません。どちらかというと、物静かな春日さんの視線そのものといった方がわかりやすいか。

物静かな春日さんといえば、「準太陽賞」を受賞し写真家として社会的にも認められていたにも関わらず、どこか田舎の方で「紙芝居屋」をやっていた時期があったということでした。それを、写真学校の重森校長に呼び戻されて講師をし始めたのが、ちょうど私が春日さんに出会ったころなのです。春日ゼミは1年生の時だけで、それからはあまりお会いすることはありませんでした。私が卒業してだいぶんたった89年、同級生から春日さんが亡くなったことを聞きました。47歳。自死という話でした。

本の協力者の名前には、奥さんらしき春日姓と、津田基さん、森裕貴さんとあります。津田さんは、四谷で「モール」という自主運営ギャラリー兼写真図書館をやっていた方です。森さんは、写真学校で別のゼミをやっていて、だいぶん後に校長も勤められました。春日さんが亡くなったあと、津田さんや森さんが遺品である写真を整理していたようですので、おそらくその流れでこの一冊ができた、と考えていいのでしょう。

重森校長がご健在であった東京綜合写真専門学校は、ただただ「街頭スナップ」を徹底してや撮影するのが習わしでした。被写体の人に殴られてでも、近寄って撮れ! みたいな、今では考えられない教育方針もありました。右も左もわからない写真家志願の学生は、一重にこれを信じるしかなかったのてすが、それが嫌で辞めていく学生も少なくはありませんでした。そして街頭スナップの大きな目標の一つが「太陽賞」だったのです。ですから、「準太陽賞」を受賞した春日さんは学校のエリートであったと同時に、学生の多くにとって憧れでもありました。

そんなわけで、この本に見る東京オリンピック当時の街頭スナップは、あの学校の学生には必ずや見覚えのある「スタイル」なのです。当時の学生の写真は、多かれ少なかれ、みんなこんな感じ、だったのです。そういう具合に考えると、この本に見る写真は、確かに春日さんの視線によって撮影されたものではあるのですが、視線の裏には東京綜合写真専門学校の流儀が、あるいは重森校長の信念が見え隠れしているように感じます。まるで、重森校長が春日さんを操って写真を撮らせていたかのような、といえば言い過ぎなのでしょうが、私自身の感覚はそこから離れられません。

街頭スナップ。画面の中には自分と付き合いのある人やモデルが写っているわけでもなく、自動車や建物という対象でも、自分が好きな対象を撮るというのでもない、街のスナップ写真。そんな写真をなぜ撮るのか? というと、それが「芸術」と思われていたから、というしかありません。その「芸術性」を担保しているのは、他でもない重森校長という個人の存在でしかありえませんでした。

しかし時代は変わりました。この本の写真には、空気のようにあったはずの東京の日常、いつもそこにあるはずのものだからこそ、いつの間にか無くなったとしても誰も気づかない、そのような街の景観が残されています。春日さんが撮影し、津田さんたちが編集しなければ、ただ忘れ去られるしかなかった東京の姿です。果して、次期東京オリンピックの50年後に、このような写真集はどのようにありえるのか。今の東京を50年後に残すことを想定した時に、どのように写真が可能なのか。残すところ5年。少しずつ考えていきたいと思います。50年後には私自分も生きてはいないのですが。

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