こんな記事もありました

いま、佐川一政(いっせい)という名前を聞いて思い出せる人は、私の世代よりも上の方ばかりでしょう。

「1977年(昭和52年)からフランスに留学し、1980年(昭和55年)、パリ第3大学大学院比較文学専攻修士課程修了。引き続き同大学院博士課程に在籍していた1981年(昭和56年)6月11日、佐川は同大学のオランダ人女性留学生(当時25歳)が自室を訪れた際、彼女を背後からカービンで撃って殺害。屍姦の後、解体し写真に撮り、いくつかの部分の肉を食べた。

そのあと佐川は女性の遺体を遺棄しようとしているところを目撃されて逮捕され、犯行を自供したが、取調べにおける「昔、腹膜炎をやった」という発言を通訳が「脳膜炎」と誤訳したことから、精神鑑定の結果、心身喪失状態での犯行と判断され、不起訴処分となった。

その後、アンリ・コラン精神病院に措置入院されたが、この最中にこの人肉事件の映画化の話が持ち上がる。佐川は劇作家の唐十郎に依頼するも、唐は佐川が望んでいなかった小説版「佐川君からの手紙」(『文藝』1982年11月号)で第88回芥川賞を受賞する。(wiki)」

これが掲載されたカメラ毎日は、多分、事件のあった1981年の号だろうと思います。記事には、「ここに掲載した写真は、フランスの雑誌『PHOTO』にのったもので、この雑誌はただちに回収処分をくらった。」とあるよう、さすがにwebで公開するのは憚られるイメージですので、ここに掲載するメインの写真部分にはボカシを入れました。

ただ、ある種「趣味の写真」雑誌に、アートや芸術、趣味の写真の範疇から外れたようにみえるこのような記事が掲載される、ということに「写真」を考えることにおける懐の深さを感じます。別の機会で触れると思いますが、「写楽(しゃがく)」や「写真時代」もこういう野次馬的な記事が多くて面白かったのでした。

ところで、フランスの雑誌『PHOTO』といえば・・・。この2年後である1983年に福武書店(現・ベネッセコーポレーション)から刊行された「PHOTO JAPON」は、この雑誌と3年契約の提携(法律的には正しくない表現かも)をしていたのでした。だから「PHOTO JAPON」。この雑誌は契約満了の3年目で休刊となるのですが、その最後の半年くらい、私はこの編集部でアルバイトをしていました。詳細は後日書くことになると思いますが、まことにもって世界は狭いと思う次第です。

つづく

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