最終号・1984年4月

記憶の中では、表紙の下に「サヨナラ」と大きなカタカナで書かれていたはずと思っていたら、さにあらず。「Hello Goodbye」でした。写っているのは、ジョン・レノン。写したのは、浅井慎平さんだったはず。

1985年4月。私、23歳。会社員を辞めて東京総合写真に入学した、その翌年の4月。上京したのが3月で、ちょうど1年目にあたります。休刊になることは、しばらく前からわかっていて、一生の記念になるような思いで購入したはずなのですが、そのときに冊子をめくった場所の記憶は27歳ころに住んでいたアパートです。ということは、伊奈さんに歴代のカメラ毎日を譲っていただいたころか? であれば、いろいろ話が変わってきます。困ったなぁ。

まあいいか。

Wikiには、このような記載。ちょっと長いので、4つの時代区分にわけてみます。

『カメラ毎日が創刊された1950年代は、現在も残っている「アサヒカメラ」「日本カメラ」以外にも「サンケイカメラ」など多くの雑誌が創刊され空前のカメラ雑誌ブームであった。創刊時にロバート・キャパを招待したが、他誌との違いはそれほど見られなかった。』

この時代は生まれてもいないので、まったくわかりません。が、戦場カメラマンとして知られるロバート・キャパは、今でもよく知られているはず。

『しかし1960年代はじめになるとライトパブリシティなどの広告代理店の写真部に属す若い広告写真家(横須賀功光、高梨豊、立木義浩、篠山紀信、沢渡朔など)の作品を掲載するようになった。 』

高度成長期。その追い風に乗って日本中を席巻した若手写真家たち。今でも現役の方も多い(本当に長生き。いい意味でも悪い意味でも。日本の縮図でもありますね。)ですが、この時代の広告写真のイメージは、ずっと今に至るまで影響を与え続けているというか・・・・。

『こうした流れの中で生まれたのが1965年4月号に掲載された立木義浩の「舌出し天使」である。全56ページ、構成 和田誠、 詩 寺山修司、解説 草森紳一という写真集のような構成であった。この他にも1966年1月号では高梨豊の「東京人」、1965年11月号では奈良原一高の「静止した時間」など日本写真史に残る、30ページ以上の大特集を組んだ。』

上の広告(的な)写真から抜け出して、写真の作品、あるいは写真表現というジャンルを築き上げようとしたもの。クライアントや大衆の意図は二の次として、自分たちが作りたいものを作る、といったニュアンスです。まあ、ある意味、作り手にも受け手にも、生活の余裕の至る思考の余裕ができてきたということでしょう。

『その後は掲載される写真の傾向が大きく変化し、森山大道や中平卓馬の「アレ・ブレ・ボケ」写真、牛腸茂雄らの「コンポラ写真」などが掲載されるようになった。他に柳沢信、新倉孝雄、須田一政、鈴木清などが活動した。 』

学生運動の余波もあり、社会に反抗するモードの勃興。「よりきめ細かに、よりシャープに、より美しく」が正統な写真術なのに対して、「アレ・ブレ・ボケ」はこの正反対です。中平さんの写真集などは、この理論武装のようなものでしょう。篠山紀信と中平卓馬の『決闘写真論』は、大卒で写真学校に入ってきた友人がハマっていましたねぇ。奨められて読んで、よく分からず。ただ、篠山紀信=健康、中平卓馬=不健康 というくだりは腑に落ち、不健康の方がすごくかっこよく見えました。

というわけで、私は完全に遅れてきた世代になります。ただ、カメラ毎日が休刊になって以降は、「アサヒカメラ」や「日本カメラ」でも、「アレ・ブレ・ボケ」や「コンポラ写真」が紹介されるようになっていきますし、当時の写真学校はもろに「コンポラ写真」一色といってよい傾向がありましたので、カメラ毎日の遺産の中で、私の写真観というのが出来上がっていったのだなぁ、と今にしてやっと、少しわかったような気がします。

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