フォトジャポン編集部は、9階建てくらいの福武書店のビルの上層階のワンフロアにありました。フロア自体は社員が100人以上いそうな広さだったのですが、編集部の島の机は10個もないくらい。おそらく外出しているのでしょう、そこにいる編集部員は数人。

たったこれだけ?

後に、日本カメラも、CAPAも、雑誌編集部というのはだいたいそんな人数なのだということがわかりましたが、月々数万~十数万部を出版している憧れの編集部に夢を見ていた読者の一人としては、目を疑いそうになったことは事実です。

人数が少ないということもあるかもしれませんが、印刷会社に入稿する数日は徹夜作業のようなこともあったはずです。アルバイトの私は、そこまで真剣には仕事をしていないはずですが。

今にして思えば、フォトジャポン編集部の方々は福武書店の社員です。編集長だけは他から引き抜かれた方だったはずですが、編集部員は、ある日突然、辞令がくだりフォトジャポンの編集をすることになったのでしょう。なので、写真が趣味とか、もともと写真が好きで・・・という人はいなかったと思います。

私自身は写真学校の研究生という立場で、今思えばかなり偏った写真観ではありますが、相応の知識とこだわりを持っていましたから、編集部員の方々との温度差というのは確かな肌触りとして感じていました。自分よりも詳しい人たちであって欲しいのに、現実はそうでなかった残念さ、もありました。

長らく編集部にいれば多少は感化され、写真やカメラ好きになるかもしれませんが、たった3年で休刊になるわけですから、そこまで至らなかったということかもしれません。前に話題にした、高橋さんの「誰も写真のことを教えてくれないんだよ」というのも、こうした背景があってこそでしょう。

しかしまあ、カメラ好き・写真好きだから、面白い紙面作りができるかというと、これはこれでマニアックになりすぎて読者がついてこれないようになりがちでもあるし、痛し痒しなんでしょう。ビジネスという観点からすると、あんまりハマらない方がいい結果になることが多いのは、これまでの経験からも何となくわかります。

『TeWaZa』と『海燕』

フォトジャポン編集部の隣には、『TeWaZa』編集部と『海燕』編集部がありました。

『TeWaZa』については詳しい情報が見当たりませんが、季刊で、1985年前後の出版のようですから、私のフォトジャポン編集部アルバイトの時期と確かに時期的に重なっています。西巻 興三郎さんが編集した号もあり、この名前はおぼろげながら聞いたことがあるような無いような。

『海燕』は、”かいえん” と読みます。WIKIはこちら。1982年1月号から1996年11月号までの発行。初代編集長は、著名な編集者だった寺田博さん。フォトジャポン編集部の方々から、「すごい人なんだよー」と教えてくれました。

アルバイトを始めて少し馴染んだころ、編集部のスズキさん(だったかな?)という女性に連れられ、寺田さんのご自宅に伺ったことがあります。こじんまりした上品なご自宅で、書斎でしばらく話をしながら、ウイスキーを少しだけいただきました。話題は、彼女の人生相談のようなことで、「まあ、がんばんなさい」というような、比較的ありきたりの結末だったような・・・いや、これは記憶を作っているかもしれません。少し私も話を挟んだはずですが、何を話したかは覚えていません。

そうそう、夜遅くなった時だったか、副編集長のマキタさんに自動車で自宅まで送ってもらいつつ、途中のファミレスでご馳走になり、哲学的な話など根をつめて話をしてもらったことも覚えています。

思うに、ちょっと年をとった貧乏学生ということもあったのでしょう、皆さんに食事を奢っていただいたり、いろいろな方に会わせていただいたり、本当に大事にされていたのだなぁ、と思います。恩返しもできないままですが。

WIKIを読みながら、『海燕』がらみで、誰かに連れられて小林恭二さんにもお会いしたことがあります。確か、俵万智さんのことを、いい意味とちょっと皮肉を込めたような感じで「彼女はビョーキだからねぇ」というような意味のことを話していました。『サラダ記念日』が280万部というベストセラーになった直後で、ちょっとやっかみもあるのかなぁ、と思って聞いていました。

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