通称、ギャラリーMIN(ミン)。

名前の由来は、オーナーの名である「稔(みのる)」ですが、もう少し詳しく言うと、クリスチャンでミドルネームを持ち、MINORU  MIN SHIROTA と表記していました。

ギャラリーの正式名は、GALLERY&STUDIO MIN と名付けられているよう、1階がギャラリーで、地下に20坪ほどの白ホリの貸しスタジオがありました。私の前から仕事をしていた男性2人(名前を思い出せません。一人のあだ名は、コミック、タンタンの冒険の主人公に似ているというので、中村さんからタンタンと呼ばれていました)はスタジオ担当で、もともとスタジオマン出身。コマーシャル系のスタジオだったようですが、自分たちで撮るということはしていませんでした。

ストロボはスイスの「ブロンカラー」の最上級っぽいジェネ(備えつけとポータブルを含めて6台以上)とヘッドも10灯以上あったでしょう。天井には、畳一畳分ありそうなトップライトがつり下げられ、電動で自由自在に動きます。左右の壁にはストリップライトが備えつけられていました。(写真道場の左右の壁にあるストリップライトは、これを真似て設置したものです。)

白ホリは左右6メートル、奥行き10メートルくらいはあったでしょうか。もっと広かったかも。カメラ側は中二階が設けられ、スタッフルーム、鏡の回りに白い電球がたくさん配置されたヘアメイクの部屋、衣装部屋も用意されていました。1階、ホリゾントに向かって右側手前は、細かな機材や背景紙のスペース。左側はシャワー付きのトイレ。シャワーとトイレスペースだけで4畳半くらいはあり、自分のアパートと比較すると涙せずにはいられません。

ただ、撮影の仕事は多くはないというか、ほとんど稼働しておらず、1カ月に1件入るか入らないかといったペースだったように記憶しています。経営、大丈夫かなぁ、とシロートながら思っていたものです。ま、バブル前夜ですので、1件でもドカーンと大きいのが入れば十分だったのかもしれません。

仕事が終わってから複写をさせてもらったりしていましたが、今思えば、モデル撮影でもやっておけばよかった。

一度、中村さんの誕生日だかに男3人でそれぞれ彼女を撮影しよう、ということになり、私はその広い鏡張りのトイレで撮影したのでした。ネガもプリントもどこかにあるはです。

ギャラリーの仕事

1階のギャラリーは、写真作品の販売を目的としたスペースで、入り口を入って左側に半円形をした吹き抜けのバルコニーがありました。これまたお洒落なスペースで、昼食はスタッフそろってここでのんびり取るのがならわし。これだけで、ブルジョワになったような気分を堪能できたものです。

ギャラリーの奥、右側はバーのような設備があって、大理石でできたカウンターの上には、ワイングラスを宙づりにしたワイングラスハンガーがありました。むろん、生まれて初めて見たものですし、これを使ってワインを出したりするのも初めて。これまた、夢の世界に迷いこんだような心持ちでした。

仕事は、来店する写真家や評論家、たまにお客さんなどのお相手をするのが日常。

写真展は月に一度ずつ作家を変えて行ないます。いわば、毎月、異なる作家の個展をやっているようなもので、その作家は基本的にアメリカ西海岸で頭角を表した若手ばかり。この写真展に合わせて、毎月30×30センチ、厚さ1センチくらいの写真集を製作します。印刷は定評のあった光村印刷。デザイナーも同じ方が続けていました。この原稿のやりとりや校正のお手伝いをするのも大事な仕事。海外との原稿のやりとりで、急ぎの場合には「フェデラル・エクスプレス」を使って、西海岸からの荷物が翌日か翌々日には届くというのも驚きでした。写真集は毎月2000部くらい印刷していたように記憶しています。しかし、これを「売る」ことに関してはあまり積極的ではなく、どなかたとの間で販売計画を立てようとした折りには、「そんなことはするな」と怒られたような覚えもあります。

あと、写真展前は、額のマットをカットしたり、額装したりするもの仕事。額は「ニールセン」、マットカッターは「ローガン」で、これらを使ったのは初めてで、マットも2プライ、4プライの無酸性紙を使ったり、なにもかもが、一級品の世界でした。しかし、作品が売れる現場というのを見たことがありません。私が知らないところで取引されているのかぁ、と思う程度。

毎月の写真展のオープニングには、アメリカから作家本人を呼び、ケータリングの豪華な食事と、シャンパン「モエ・ド・シャンドン」や私にはよくわからない高級そうなワインをパンパン空けて、飲めや踊れの大騒ぎ(比較的上品ではありましたが)を繰り広げるのです。有名無名のカメラマン、雑誌編集者、評論家などなど、多彩な方々がお見えになられていました。みんな、お金持ちそうに見えたものです(私に比べれば全員お金持ち)。こんな具合で、毎月のように盛大なパーティを行なうわけですから、私自身も多少はお洒落になり、ちょっとフォーマルなジャケットにネクタイを締めてたりしていました。この頃が、一番お洒落に気をつかったかもしれません。

仕事を終えた後に、城田さんが運転する自動車で六本木に繰り出したりすることもありました。今思えば、まさにこれこそ「バブル」だったのですね。

スタッフ同士では、学芸大学の飲み屋で、「写真」の話をして盛り上がったものです。あまりに飲みすぎて、学芸大学の終電に乗ろうとホームまで行ったはいいが、椅子に座った途端寝込んでしまい、目が覚めたら駅員二人に両腕をつかまれ改札から外に放り投げられてそのまま、というような醜態もありました。

ちょっと余談ですが、この頃に服を調達していたのは武蔵小杉にあるメンズ・セレクトショップの「ナクール」です。10歳ちょっと年上のちょっと四角い顔をした人当たりのよいオヤジが店主で、ずいぶん仲良くさせてもらいました。いくつか服を見せてもらった時に、「これは美しいなぁ~」というと、「お、さすが芸術家のいう言葉は違うねぇ」と言われたこと。男女関係の話になって、「愛があれは世界は平和ですよねぇ」というと、「いいこというねぇ」と褒められた? ことを覚えています。また、一時期、店員をしていた若い男性に新しい店を持たせたら大失敗。「ん千万の大損だよ」とこぼしていこことも。しばらくして私はギャラリーMINを辞めるのですが、そうなるとファッションにもあまり気をつかわなくなり、何年もご無沙汰してしまうことになるのですが・・・。

顛末

仕事は自分なりに頑張っていたつもりですが、何しろ、オーナーは私の目からみると「売る気のない経営者」でしたので、何を言っても思うような回答が得られません。私の知らないところで収益をあげられていたのかどうか。そこはまったく謎のままですが、その内、給料の支払いが遅れるようなこともあり、イライラが募りに募って、ちょうど6カ月を終える時に辞めさせてもらいました。この頃は、私の両親二人の関係も芳しくなく、いろいろストレスが重なっていたこともあります。

6カ月というのは失業保険をもらえる最低の期限です。よって、私は、二つの会社で2度、失業保険をもらったことになるのですが、この手続きには「離職届け」が必要で、これを城田さんにお願いしてもなかなか発行してもらえず、ずいぶん難儀したものです。

その後、人づてにギャラリーは閉鎖したことを知りました。終わりごろには、ギャラリーに反社会的な雰囲気の人たちが出入りするようになった(?)ようなウワサも聞きましたが、この真偽はわかりません。ただ、あの金遣いからすると、さもありなん、とは思うところです。

なので、ギャラリーがいつまで続いたのか、よくわかりません。ネット情報も皆無に等しいのは、本当に残念。数年とはいえ、アメリカ西海岸の作家などを日本に紹介した功績は相応のものがあるはずなのに。ネット上でただ一つだけ見つかったのは、私が在籍していた当時に作った写真集「Michael Kenna 1976-1986」で、は発行が1987年となっています。これだけでもあるだけマシか・・・。どなたか、写真史の1ページとして、ちゃんと書いてくれないかなぁ。

こうして私はまた無職となり、ZEITのアルバイト、そうしてフォトジャポンの高橋さんつながりで、彼と伊藤俊治さんらが開いた青山の事務所に出入りするようになります。

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