せっかくニューヨークに来たからと、メトロポリタン美術館やらホイットニー美術館、ちょっと足を延ばしてブロンクス動物園などぶらぶら。おのぼりさん気分全開していたのですが、北島さんは、確か3日遅れくらいで到着、合流しました。開腹手術をして1週間程度しか経っていなかったはずで、すごいなぁ、と感服しましたが、とにかくはトラブルがなくてよかったです。

四方田さん、北島さんの仕事は、ニューヨークで活躍する日本人を訪ね歩くような企画で、ただ後をついていくだけでしたが、見るもの聞くもの、すべてが目新しく新鮮だったにも関わらず、ほとんど記憶にありません。覚えているのは、北島さんの友人宅にお邪魔した時、北島さんとその友人は数時間将棋にふけり、私は将棋がわからないものだから退屈で退屈で仕方なかったこと。四方田さん、北島さんとともに、島田雅彦さん宅にも伺ったこと。奥さんがきれいだったことくらい。どうしたもんだか・・・。

あと、夜にお二人と洒落た飲み屋に行ったこともよく覚えています。このとき私、お腹の具合が悪くてですね、お店に到着した途端に大の方をもよおしてきたのです。すぐにトイレを探して入りました。二つ並んだ小便器の右側に大便用があって、これで一安心、と思ったらドアが壊れているではないですか。それもドアが閉まらないとかいう問題ではなく、完全にドアが外れてしまって、ない。ドアがない。つまりは大便器が丸見え。ということは、すなわち、排便姿が丸見え状態。

いくらなんでもこれは無理、と北島さんらのところに戻り、「どうしよう」と相談したら「そのまますれば?」とにべもなく。

事は急を要していまして、これはもう仕方ない。他の人が入ってこないことを祈るばかりと、決行に及びました。

便器に腰をかけ、ああよかった、これで一安心。事がすんだら、お酒も飲める、と思った途端、白人の若い男性が二人入ってきて小便をし始め、チラチラこちらを見ながら、クスクス笑う。こちらはもう恥ずかしさを通り越して、うなだれるばかり。

しばらくして彼らが出て行き、私はゆっくり準備をしてトイレから出た途端、トイレの前には10人くらいが座った大きなテーブルがあり、おそらくさっきの二人もその中にいたのでしょう。若い男女の全員が、大拍手! 万雷の拍手喝采とはまさにこういうことかと。いや、嘲っているとかそういうのではなく、ただただ、「よくやった!」的な。

だから案外、これでちょっと気が楽になれたことは確かで、後は飲んだくれただけなんでしょう。あんまり覚えていません。

昭和の終わり

そんな具合で、北島さんたちの後をついていったり、作品撮りをしたり、観光したりで、実にぼんやり過ごしていました。

ある日、地下鉄に乗って、前にいる黒人さんが読んでいる新聞を見ると、こう書いているのです。

THE EMPEROR DIED

なんとなくこんな英語で、やっと昭和が終わったんだな、と。日本では「天皇崩御」という初めて聞く言葉で表現されましたが、英語ではさっぱりしたものです。

確か昭和天皇は体調を崩してから半年くらい、テレビ報道は、「今日の下血は何CC、輸血は何CC」というような報道が続いていまして、いつ昭和が終わるのかはっきりせず、ずっと自粛状態でした。今のテレビ報道は、「今日の感染者は何人、重病者は何人」というばかりで、当時からあんまり変わっていないのかな。

そうそう、当時、北島さんの声かけで、昭和の終わりの風景写真をみんなで撮ろう! という話になり、私や河野さんらで、町の写真を撮影していたのです。この企画はそのままお蔵入りになりましたが。

作品撮り

北島さんたちが仕事などででかけている時は、私は作品撮りと称して、マンハッタンをうろうろしながら写真を撮影していました。ウィスタの4×5カメラを三脚にカメラを載せたまま、歩き、暇そうな人を見つけては声をかけて、ポーズをとってもらって撮影する、という方法で、これは写真学校当時から続けていたやり方です。

ニューヨークの前は、仕事で行ったニューカレドニアとバヌアツ、そしてMIN時代に一緒に仕事をしていたナカムラさんたちと行ったバリ、でも同様の方法で撮影した作品は、1999年に銀座ニコンサロンでの写真展に結びつくのですが、これは後々のこと。

4×5カメラで撮影していることは、北島さんもご存じだったはずですが、大判カメラを使ったことはなかったようです。しばらくして、使い方を教えてほしいということになり、簡単な手ほどきをしたのです。当然ながらカメラを貸してくれ、となり、時々、私が使わない時は貸すようになります。ちょっと渋々な気持ちがないわけではないのですが、立場的にはちょっと弱いですからね。北島さんから「トーマス・シュトルート」という写真家の名前が出て、これが最近の流行りのようなことをいっていたような気もします。

そうこうするうち、貸し出し頻度は高くなる。北島さんは夜な夜な知人たちと遊び回って、カメラが戻るのが朝方になったりするようになって、これでは自分の撮影にも差し障ると思い、書き手紙を書いて寝ました。

「カメラが戻ってこないのは困ります。こういうことではお付き合いしかねます。」というような。

翌日、手紙を見た北島さんは、「「・・・しかねます」というよそよそしい書き方が気に入らない」とちょっと不貞腐れているよう。で、翌日くらい、夜中にゴソゴソ音がするので、今頃帰ってきたのか、うとうとしながら聞き耳を立てていたら、どうも韓国人の友達と一緒だったようで、韓国語を話している。そのまま寝落ちして翌日目覚めたら、北島さんの荷物が一切合際なくなっていました。

あ、出て行ったんだ・・・。

帰国

そんなこんなで、私は一人残されたわけですが、この後、何日くらいあったのかは覚えていません。ただ、一人で空港まで行き、一人で帰ってきたのは確かで、当初に買ったフライパンやナイフ、フォークも持ち帰りました。

帰国して1カ月くらいしてから、渋谷のヨックモックで北島さんとお会いしたのですが、お互い、ほとんど言葉らしい言葉を交わさず、そのまま。

しばらくして、北島さんはその作風を大きく変え、大葉カメラで撮影した都市風景の作品を発表するようになります。それはまるで、「トーマス・シュトルート」の作品の日本版のようでした。考えてみたら写真集「ニューヨーク」は、森山大道さんの北島さん風でもありまして、ああ、そういうことなのかな、と思うことは、その後しばしばです。だからといって氏の作品を否定するつもりは一切ありません。作家というのはそうしないと生きていけない存在でしょうし、およそ人間の作り出すもので正真正銘のオリジナルなんて、この世にあるわけがないのです。

それからまた10年くらいして、どこかの写真展のオープニングでお会いした時は、これは昔話と水に流したように普通に話ができました。

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