ニューヨークに行く前から、伊藤事務所にいた高橋周平さんの紹介でカメラ雑誌「CAPA」のコラムを書く仕事をするようになっていました。企画を立てOKがでたら、取材して写真を撮影して文章を書いて、7000円。経費は別。下手をすると半日、一日仕事になることもあるのですが、速いものなら数時間。これを3本やれば、家賃(当時は18000円の六畳一間に住んでいた)になる計算なので、頑張りました。自分の好きなことしか企画に立てないので、楽しかっただけでなく、企画~取材~撮影~執筆という雑誌取材の基本をここで学べました。

担当は高田さん。「写真は好きでもなんでもない」と公言していたのですが、編集者として仕事をするには「写真」に対する自分のこだわりを出すことなく、読者の要求をよく理解して反映できるのがよかったんじゃないかな、と思います。後に編集長になりました。CAPAの仕事をやらなくなったのは、2000年前後ではないかと思うので、干支一回りくらいの間、自由に仕事をやらせてもらえました。

コラムを書き始めて数カ月した時だったか、「久門君、文章はセンテンスを短く。AはBである。BはCである。よってAはCである、くらいに書いた方がわかりやすいよ」と教えてくれました。時代は、ニューアカデミズムであって、私はワケもわかならいのに蓮見重彦さんの本などを読み、数ページにわたって「。」のない文章などをかっこいいと思っていましたから、これは本当に適切としかいいようのないアドバイスでありました。これをもって、私の文章は大きく変わったはずです。

連載開始!

1989年12月号の連載開始分

そうして、ニューヨークから戻り半年ほどしたころ、高田さんから「久門君は暗室作業できるよね。高校の写真部に教えにいって記事を書かない?」と誘われました。もちろん、「はい、やります。」と即答。これが5年ほども続き、2回の単行本化もされる人気(?)連載「種牛くんの暗室講座」の始まりになります。

「文は人なりっていうけれど、久門くんの文章から性格がわかるよ。」ともいわれたことがあり、いいのか悪いのかわかりませんでしたが、連載を進めてくれたということは、良い評価だったのでしょう。おそらく。

「種牛」は、写真のネガの事を昔は「種板」といい、私は丑年生まれであったことから冗談でつけたのです。編集部員にはウケがよくて、このまま企画は進んだのでたすが、ある日学研の偉いさんの目に止まって、「これはよくないんじゃないか?」 と問題視されたことがあるそうです。気の利いた編集部員が「種馬じゃないから大丈夫でしょう。」と、言い訳ともつかない言い訳をしたら、なぜかそれで納得していただけたのだそう。一事が万事こんな感じで、若い人ばかりの楽しい編集部でした。

初回は、赤坂高校。写真部部長である宇田川君と青山墓地で待ち合わせるという奇怪なスタート。イラストは野末さん。写真と冒頭の紹介文は久保恵子さん。32年前かぁ。若かったなぁ~。この頃の高校生たちも、すでにアラフィフなんですねぇ。

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