西城さんをお見送りしたのが東京駅だか、上野駅だったか、今ではまったく定かではなく、果たして30年前に東北新幹線が開通していたかさえわからなかったのですが、wiki情報では開通していたみたいです。でもまあ、心臓に病を抱えた方を見送るのですから、いくら薄情な私とて相応のお見送りをしたはずです。でも記憶にない。

ただ、自宅に帰り数日の間、「あれはいったい何だったのだろう?」とぼーっとしていたことは覚えています。しばらくして少し長文のお礼の手紙を書いて送ったことも記憶に新しいのですが、その内容は定かでなし。

今思うに、「歳の差30以上ありそうな方に、一晩まるごと話を聞いてもらい、写真を主題にした内容が中心だったとはいえ、人生相談のようなこともできた」というのは、滅多やたらにはありえないことでしょう。両親よりも年上だし。そもそも、両親には胸襟を開いた人生相談のようなことなど話せません。齢60になりますが、そんな悩みを話したことは一度たりとてないのです。会社を辞める時もそうでした。もしこれを話したら、そのとたん、「さっさと田舎に戻って結婚して・・・」という結論にしかならないのは目に見えていました。

なので、両親に比べるなら教養もはるか上であり、1をいうだけで10くらい理解されているというようで、心の中は完全に見透かされているように感じる方に、根をつめて話ができた、というのは、それだけで幸甚としかいいようのない経験なのでした。むろん、両親の立場を下においているのではありませんで、斜め上というか、第三者的というか、しかし職業柄の師というのでもありませんで、だから他にたとえようもない。なにしろ、つい昨日の夜に初めてお会いしただけという間柄です。

にもかかわらず、「準備して連絡するから、一ノ関に来なさい」という提案は確かに覚えていて、実をいうと毎日のように連絡を待っていました。が、これがなかなか来ません。1カ月はすぎ、2カ月ほど経ったころ、やっと連絡が入りました。電話だったかなぁ。これが記憶にない。新幹線のチケットを郵送で送ってくださったのかもしれません。

一ノ関へ

真冬の夜でした。降り立った駅はとても小さく、長椅子が二つくらいあって、ストーブで暖を取る待合室があり、そこで西城さんを待ちました。なので、一ノ関駅まで新幹線で、在来線でどこかに行ったのでしょう。はっきりした記憶がありません。 駅に到着したのは、午後8時くらい。到着時刻は伝えていましたが、今のように携帯電話がありませんので連絡はとれません。待ち時間は覚悟していて、編み物セットを用意していました。10分くらいは待合室の中でぼんやりしていたのですが、なかなか来られない。仕方がないので、編み物を始めました。1時間以上。ちょっと不安にはなりましたが、他にやることもないので、延々編み物。2時間になろうかという頃になって、やっと西城さんが自動車で到着しました。 「仕事が立て込んでいてね。すみません。では行きましょう」と、ご自宅へ。 しばらく町中を走っていましたが、次第に暗い田舎の景色になったかと思うと、細く曲がりくねった山道に入りました。2車線なかったかもしれない。すると、自動車のスピードがぐんぐん上がる。カーブというカーブは、タイヤの軋む音がキュルキュル鳴りながら、ほとんどドリフトしそうな勢いです。私自身もそれなりに運転していますが、細いワインディングロードで、それなりの速度、多分80キロくらいでていると思うのですが、不安感はまったくありません。これが同年代とか若い人が運転していたら、「やるねぇ」とか声をかけるはずなのですが、運転しているのが親よりも高齢で、しかも決して走り屋には見えない職業医者なのです。どこから、どう突っ込んだらいいのかと言葉を探している内に、山道は終わり、ゆるやかな平地になって通常運転に。 「速かったでしょう。レーシングドライバーに運転を教わりまして。なので安全なんです」 何をどう応えてよいかわからず、「そうですか」とだけ。
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