「久門君、儲けさせてあげるからね」

で始まった仕事は、リブロポートから出版される荒俣 宏さんのシリーズ本『ファンタスティック12』に使う版画の複写でした。

12は”ダズン”と読みます。日本語では”ダース”の意らしいので、1ダースってことでしょう。

クリックすると、この写真が掲載されている古書店のページに飛びます。12巻全ての表紙も見られます。 

 

 

荒俣さんは、儲かったお金のほぼ全てを古書の購入に充てているコレクターとしても知られています。私自身は、その実態とか、全体像はまったく知らないのですが、このシリーズは西洋の版画を製本した古書を複写し、テーマごとに整理・編集し、荒俣さんが解説を記したものになります。

本当をいうと、こんなシリーズ本になることすら、当時はわかっていなかったのですけれど、とにかく、「荒俣さんの本を出すから、複写をしてほしい」という話でした。

荒俣さんの古書コレクションは、氏のご自宅ではなく、平凡社の本社の地下にある書庫に置かれていて、なので、撮影は主に平凡社の業務が終わった夕方から深夜にかけて、会議室のような場所を貸していただいて行いました。荒俣さんが、でかいカートに本を何冊かずつ載せて部屋に来る、石原さんが複写するページを指定する、それを私が複写する、という段取りで、毎月数回、1年くらいに渡って延々仕事が続きました。

「古書」といっても、大きいものはA1サイズくらいで、厚さは10センチくらいあります。一枚一枚、職人が版を彫り、天然色で刷り上げた立派な版画を、100枚くらいの単位で製本したものです。1冊の重さは、20キロくらいあったんじゃないでしょうか。これを、一冊一冊、床に置き、ページをめくり、下向きにセットしたカメラファインダーを覗いてピントを確認し、複写していく作業が延々続きます。

はじめの内は、美しく魅力的な版画を見るのが楽しくて、「おおー」とか、「すげぇ」とか感動するのですが、次第に足の筋肉がいうことをきかなくなり、腰が痛くなり、だんだん無言になって、完全な労働になっていくわけです。で、一日100~200カットくらいを複写したら、その日は終了。お疲れさま。

 

 

 

 

どんどん機材が立派になっていきました

前回、ちょっと触れましたが、当時所有していたカメラは、ニコンFと55mmマクロのみでしたが、複写には最適の組み合わせではあったのです。ただ、ニコンFは、フィルム交換の時に裏蓋を完全に取り外す必要があるカメラで、だからフィルム交換のたびにカメラを雲台から取り外さなければなりませんで、これがたいへんに苦痛でした。当時のニコンのフラッグシップ機は、F4だったはずで、ゆうに30年遅れのカメラを使っていたわけです。

バカかね?

フィルムは、フジの「フジクロームT64」。タングステンタイプ。500ワットのフラッドランプ2灯でライティング。

でね。3カ月後くらいに最初の支払いがドーンと入ったので、カメラを新調しました。ニコンF2。これでフィルム交換が格段に楽になりました。しかしね、F3にしなかったのはなんでだろう。中古ででも、F3×モータードライブにしたらガンガン撮影できたのに・・。

何を考えているのかね?

それからは、毎月のようにドカーン、ドカーンと大きなお金が入ってきます。F2を買ってしばらくしてから、F4を買いました。モータードライブ内蔵、AF機能搭載。1988年発売なので、2年遅れくらいだったか。

多分、レンズやアクセサリー類もこの時期にかなり充実したのです。ウエストレベルファインダーに付け替えたので、ファインダーを覗くのにカメラの背面に顔を付ける必要がなくなり、下向きにしたカメラの天井側から覗けるようになって、腰痛からも開放されました。

複写用に次に買ったのは、コメットの大型ストロボ。最上級機のCA-1600、2灯セット。100万円超えでした。これで、カメラブレの心配からおさらば。フィルムはデーライトのPROVIAに。

それからしばらくして、カメラを富士のGX-680を購入。6×8センチの中判カメラで高画質化。モータードライブもついていて、ウェストレベルファインダーなので、撮影もラクラク。しかもアオリやレボルビングができるので、本の向きを変えてノドに落ちる影をなくした撮影も簡単にできるようになりました。

カメラをでっかい中判にしたので、三脚もジッツォの一番重い機種に。三脚だけで10万円超え。

ここまで来たら、一端のスタジオ撮影が可能な機材が一通り揃ったことになります。で、数年後に写真道場設立、となるのですが、当時はそんなことは露ほども考えておりませんでしたが。

それでも、お金があると、いらぬ苦労をしなくてもすむし、仕事も楽になるし、クォリティも高くなるし、実にいいことずくめであることを本当に身をもって知りました。こんなことなら、借金をしてでも機材を揃えた方がいいなぁ、と、頭では思うのですが、やっぱり借金は嫌だなぁ・・・と、小心者の私はこういう冒険は一生できないんでしょうねぇ。

 

 

 

荒俣さん

荒俣さんは、実にやさしい方で、撮影中は本の説明やらもしてくださいました。詳細はほとんど覚えていないのですが、一つだけ印象に残っていることがあります。

「これらの版画は、当時の職人が延々彫り続けて作り上げたものなんです。目を近づけて細かい彫りをするので、何人の職人の目がつぶれたことでしょうねぇ」

毎回の撮影で、腰を悪くしたり、一時は痔を悪化させたことがあり、これを話題にした以降は、「痔の久門さん」として覚えられたようです。たしか、10年くらい経った時、心霊写真絡みのテレビ番組でご一緒したことがあり、さすがに覚えておられないだろうと思ったら、「あのときの痔の久門さんですね」と声を掛けられました。

あーあ。

 

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