最近、セルフ写真館というのが増殖しているそう。撮影小物と背景、照明が用意された部屋で、セルフタイマーを使って自分たちを撮影し、データを転送してもらって持ちかえる仕組み。時間制限があって、最短で15分、1500円(一人)、3000円(二人)とか。人数や時間で加算。

 例えるなら、本格的なプリクラ。

 他人が介在しないので恥ずかくない。自分たちで撮影し、データ渡しなので安価。というのもプリクラ的。空きスペースを使い、スタッフは撮影しなくてもよく、アルバイトにもできる管理的な業務だけなので、比較的楽に安価に営業を開始できるのも良さそう。というわけで、首都圏だけでなく、地方にも増殖中みたい。

 あと、画像は「盛る」こともできるそうで、プリクラの上位バージョンとしてウケそうです。ユーザーコメントをざっと読んでいたら、「1500円は高い。1000円がマスト」とかいうのもあって、なんだかもう、寒けがしました。

 プリクラもそうですが、写真を撮って見るのが「仲間うち」に限る、というのが安心につながるのでしょう。閉鎖的、などと考えちゃいけません。webに掲載されている作例は、モデルを使った作り物が多いんじゃないかと思うのですが、「家族」で撮影する、というのもアリ。「カップル」はいいでしょうねぇ。とりわけ日本では結婚前のカップルは公式に認められていない観があって、写真館で本気で写真を撮るのは稀です。結婚したところで、1/3は離婚するって話もあるくらいですから、このあたりももっと自由になればいいのに、と思うのですが、多分、そういうことにはならない。

 なんとなくですが、今現在の家族やカップルが正規であって、以前の家族やカップルはないものとして扱う、というのが多くの日本人的な感覚でないかと思います。前夫、前妻、元カレ、元カノ(と)の写真を残すのは、「未練」のように見られてしまう。肝心なのは、当人に「未練」がなく「憎しみ」や「恨み」が勝っていたとしても、他人から「未練」のように見られてしまう、という考えから、これらの写真を処分することがある、ということ。自分の主観の上に他人の主観あるわけです。新しい家族やカップルには新しい歴史が始まるわけですが、これらが個人の歴史の上位となって、個人の歴史はこの下に位置づけられる、ということもあるでしょう。

 ふと、住所書きの順番みたい、と思ったり。国>県>市>町>建物>家族名>個人名と書くのが日本式。欧米は逆で、個人名>家族名>建物>市>県>国、とか。

 ただ、冷静に考えるに、これらは純然たる過去であって個人の歴史の一幕なのですから、これをないものとして扱うのは健康的ではありません。国家的にいえば歴史修正主義であって、実のところ家族やカップルのあり方と同じじゃないか、とこれまた敷衍してしまいうそうになります。が、この件、別途考えたいところです。

 ともあれ、セルフ写真館でこっそり自分たちだけで撮影し、自分たちだけで見る。「自分たち」だけで見るのは、プリクラも同じ。いや、SNSなどに公開しない限り、ほとんどの写真、とりわけプリントは「仲間うち」でしか見ないものなので、要は、撮影自体に他人を介在させない、のがセルフ写真館最大の魅力なんでしょう。他人がいないから、より自由に気軽に、が可能になる。生まれた時からスマホやSNSがある世代で、写るのが日常的な人であれば、他人にあれこれ言われずに楽しみたいし、楽しむことができるでしょう。(ちなみにSNSで公開するのは、自分の「広告写真」だと思えばわかりやすいんじゃないかと。)

 しかしここまで来ると、フォトグラファーの役目は、「背景や小物、照明、ピントや露出などのセッティングをすること」だけになります。バックヤード、あるいはエッセンシャルワーカーのような仕事・・。これは、私たちのような立場としてはかなり受け入れがたい現実ですが、以前も触れたように子供写真館のフォトグラファーの仕事の実態は「衣装直しとポーズの指示をするだけ」という具合にも言えますし、一般的な写真館も大局的には似たりよったり、と言えなくもありません。というような次第で、ここいらへんでちゃんと立ち止まって自分たちフォトグラファーの仕事とはいったい何なのか、を考え直さないといけませんですな。オリジナリティ豊かでアーティスティックな写真を撮っている、と思っている(思いたがっている)のは、自分たちフォトグラファーだけ、なんてことにならないように・・・。