高専の時にクラスメイトの越智君に暗室作業の手ほどきを受けて以来、写真に関心を持つようになったのですが、当時の情報は、写真店の叔父さん(結構いい年齢だったと思うけれど、当時で50~60歳くらいだったかも)とか、カメラ(写真)雑誌のアサヒカメラ、日本カメラ、カメラ毎日くらい。高専の4年くらいのときに、小学館から写真を楽しむ雑誌「写楽(しゃがく)」が発売されて、これは刊行から1年、毎月楽しみにしていて、実は今でも12刊持っています。他は、カメラ雑誌が出している技術書のムック・別冊、といったところ。

 写真を多くの人に見せる、見せもらうとなると、カメラ雑誌の月例コンテストくらいしか道はありませんでした。なので、どうしてもこのコンテストのイメージおよび考え方が基本になってきます。まとまった作品として考えるなら、カメラ毎日の「アルバム」、そしてこれを真似た企画であるアサヒカメラの「ギャラリー」がありました。「ギャラリー」については、何度か書いたので端折って、要するに、雑誌しか表現媒体は無かったし、これが写真表現の基本と考えるしかなかったのが、当時の環境だったというにとどめておきます。

 そうそう、写真を仕事として考えるなら、地方にも写真館はあったし、広告(雑誌がメイン)写真も華やかだっし、報道も元気でしたが、こうしたジャンルにはあんまり興味が沸きませんでした。単純にいうなら、「仕事」は仕事としてしていたので、仕事にはしたくないなぁ、といった感覚じゃなかったかと思います。だからといって、片手間の「趣味」にとどめるつもりもなく、多少は本気で追求して見たかったその先には「芸術」という憧れの単語がでてくるわけです。

 会社員になって1年目か2年目に、アサヒカメラの企画で「一泊で写真を学ぶ」という講座が開催されることを知りました。開催地は愛媛県・内子町。江戸時代の宿場町の風情が残る、いい地域なのです。和ろうそくも有名。講師は、太陽賞を「俗神」で受賞した土田ヒロミさん。雑誌などで活躍するプロカメラマンは一人も身の回りにはいませんでしたから、雲上の存在。なので、有給をとったかとして一泊講座に出かけたわけです。まあ、女の子のモデルを内子の町を背景に撮影するセミナーくらいな話しです。旅館は、他の受講生であるアマチュアカメラマンと同室なのですが、他のコンテストに出したとかいう四つ切り大に伸ばしたモデルの写真を見せられ、面白くもない話を延々聞かされて辟易したことくらいしか記憶にありません。土田さんの話も、まったく記憶にありません。土田さんは、私が後に入学した写真学校の講師でもあったので、ある時、この内子話を持ちだしたのですが、「覚えてない」とにべもなく・・・。そんなこんなで、これが生まれて始めてプロのカメラマンにお会いした記憶です。

 この頃、どんな写真を撮っていたか? というと「スナップ」という一言になるのですが、この件、少し長くなるので次回。

 写真を自分なりに勉強して、コンテストに応募してもめったに入賞もせず、「ギャラリー」に掲載されたのが運のつきで、仕事の将来への不安も重なって、上京し写真学校に入ることを決意します。

 選択肢としては、東京芸大や日本大学、日本工芸大学に写真学部なるものがあるような話は聞きましたが、23歳からの大学入学は学力的にも年齢的にも論外として、秋山庄太郎がやっていた日本写真芸術専門学校、と重森 弘淹(シゲモリ コウエン)の東京綜合写真専門学校のいずれかとなり、なんとなく気分で後者をとったんだと思います。あんまり深い考えはなかったけれど、今にしてみればよい選択であったろうな、と思います。理由はおいおい。

 当時は知識もなく、どこも似たりよったりという感じがしていましたが、大雑把にいうと、東京芸大や日本大学は広告や報道などメディアへのつながりがあって(学校自体でデザインや編集などとの連携があり、卒業生とのつながりもある)かなり華やかな部類。工芸大学は全国の写真館のご子息が行く学校(跡継ぎですな)、専門学校は悪くいえば上の大学にいけなかった学力の子が行く学校、という位置づけといっていいかな。と。偏見ですが。そういう意味では、東京綜合写真専門学校は、就職方面の強みはあんまりなかったかと思います(重森さんの威光が強すぎ、ちょっと時代に取り残されている感じ)。

 今は、他にも「写真の学校(何冊か本で協力させてもらいました」や「バンタン(一度、夏期講習をやってもらえないかという話があったのですが、今どきモデルの女の子を撮影しようみたいなことをさせられそうになったので丁重にお断りしました)」なんかもできたし、環境も大きく変わっています。というか、デジタル化の波もあったし、写真の環境そのものが変わってきたので、変わらざるを得ないでしょう。少子化もあるし。ま、これらの話もおいおい。