太陽賞ついでで橋口譲二さんのことを思い出し、しばらく考えていたら、江成常夫さん、鬼海弘雄さん、都築響一さんとを並べて一直線に並べてみると何かが見えてくるんじないかと思いつきました。なので、そういう方向で。しかし写真業界でも、彼ら全員を知っているよ、という人は意外に少ないかもしれません。写真業界以外で全員を知っている方はまずいないはず。ざっくり、世代順に生年と代表作を。詳しくはwikiなどで。

 江成常夫・・・1936年生まれ。『花嫁のアメリカ(1981年)』

 鬼海弘雄・・・1945年生まれ。『王たちの肖像:浅草寺境内(1987年)』

 橋口譲二・・・1949年生まれ。『十七歳の地図(1988年)』

 都築 響一・・・1956年生まれ。『TOKYO STYLE(1997年)』

 まず、好き嫌い、でいくと、都築さん→江成さん→橋口さん→鬼海さん、の順になります。橋口さんは、かなり微妙。鬼海さんにいたっては「嫌い」の範疇に入ってしまいます。都築さんは、嫉妬を込めて「面白い」と感じますが、江成さんは、凄いけど疲れるなぁ、といった感覚です。

 お会いしたことがあるのは、橋口さん。フォトジャポンのアルバイトをしていた時に、橋口さんのお話を伺う編集者のお付きとして事務所に伺ったことがあります。想像していたよりはるかに穏やかで腰が低く、好感度の高い方でした。江成さんは写真学校の先生だったことがあるはずですが、直接講義を受けたことはなく、ちょっとお目にかかったことがあるかも、といった程度。鬼海さんの作品は、フォトジャポンで掲載されたことがあって知りましたが、一目で自分のタイプではないなぁ、と思い、どちらかというと自覚的に避けてきました。都築さんは、扶桑社のSPA!で私が書評をやらせていただいたころ、『珍日本紀行』の連載をやられていて、面白いなぁ、と思っていました。

 と、これらを総じて「ドキュメンタリー」という枠に収めて比較してみると、社会と写真の変遷が見えてくるんじゃないか、という話。ここで「ドキュメンタリー」というのは、一般社会的に普通じゃない人たちに光を当て、テーマ設定をして、写真と言葉でこれを一般社会に伝えることを指します。

 江成『花嫁のアメリカ』は戦争花嫁。鬼海『王たちの肖像:浅草寺境内』は浅草寺で見つけたちょっと変わった人たち(ダイアン・アーバス的にいうならフリークスとなるけれど、ちょっと違うように思う)。橋口『十七歳の地図』は全国津々浦々の17歳(1970年末期から校内暴力事件が多くなり、1980年の金属バット事件(犯人は二十歳)など、青少年が「社会問題」として多く取り上げられた)。都築 『TOKYO STYLE(1997年)』は都内に住む主に若い人たちのユニークな個室がテーマ。

 江成さんのは戦争で語られなかった女性から始まり、満州、ヒロシマなど、基調として一般の人々が負った戦争の爪痕を追い、そして数十年してからも対象を一貫して取材続ける息の長さで、圧倒的な説得力があります。江成さん自身戦中生まれで、幼少期に戦後を体験している世代。

 鬼海さん、橋口さんは、団塊の世代。荒木経惟さん、篠山紀信さんが1940年生まれで比較的若い頃からメディアに出てきていますので、ジャンルは全く異なりますが、この二人は陰に陽に意識されているはずです。

 橋口さんの「17歳」の写真に違和感を感じるのは、これらが撮影された1980年前半に私は20代前半で、しかも四国の田舎暮らしであったため、この被写体側に自分自身が近かったことが大きく影響しています。「自分たちの都合で、我々の一面だけを切り取って、わかったふりをしてほしくない」という意識が、自分が写真を撮影する側にも立っていたがゆえに、なおさら強くありました。しかも、これらの写真がいくつかの賞を受け、社会的に評価が高くなり、橋口さんがNHKなどに登場して若者のことをあれこれ述べるようになるにつけ、私自身が抱く違和感を表出する場もなく、ただもんもんとするしかありませんでした。写真学校や友人の間で橋口さんのことが話題になることがなかったのは「論外」としての無視だったのか、「嫉妬」の至る無視だったのか。

 鬼海さんの写真は、いわば「弱者」と言われるようなタイプの人を、生き生きとした表情を一切剥奪するように撮影したものです。先にもちょっと名前を出しましたが、ダイアン・アーバスを引き合いに出して評価する声もあるのですが、被写体を写す背景は浅草寺の壁の前で、ほとんど無地。全体的に、人を「標本」みたいに扱うことに、私はとにかく「不快」を感じるのです。しかも、こういう写真を見て評価をする人々は一様に、ここに写った人々を自分たちと同じ世界の住人だと思わないようなハイソな感覚をもっていそうであることに、「不快」が輪をかけます。これはつまりこういうこと。自分自身や自分の家族や好きな人たちが、彼の写真のように写されて公開されるとしたら、自分はどう思うか? ということ。ここが私の評価の分水嶺。

 江成さんと比較するなら、橋口さんも鬼海さんも、戦争からは遠く離れて、「社会の問題」を「被写体の問題」として取り上げ、なおかつ彼らは「社会」の側に立っているように、私には見えてしまうのです。この不快は、ちょっとした暴論とは覚悟しつつ、当時の団塊の世代全体に感じた不快にも通じているかもしれません。いや、非難しているのではなくて、ここに、彼らと私の世代の考え方の違いがあるのだろうな、ということ。

 都築さんは、私の5つ上。しかも、写真家志願ではなく、編集者上がり。世代と出自が違っていて、さまざまな作品を発表した時代も違います。上の三人とは違って、いわゆる一般から外れた面白い対象を撮影しながら、どちからというと被写体側に立って「これでいいじゃないか」と開き直り、逆に、変なのは自分自身が普通であると思っている側ではないか? というやさしさを感じるのです。こういうスタンスは、おそらくバブル以降、低成長の時代ゆえではあるのでしょう。

 と、こうして見ると、それぞれの世代の人がそれぞれの時代のトピック的な被写体を選んで、それが伝わりやすい方法で撮影・表現していることがわかります。いや、逆にそれぞれの時代の社会の側に、これらの作品を受け入れる土壌が必然としてあったのだろうこともまた、よく見えてきます。 

 前回、福田文昭さんについて書きましたが、彼はFOCOSのカメラマンで、写真はあくまで仕事、だからジャーナリズムといっていいと思うし、スクープを追うのを辞めて家族写真を撮ることができたのです。しかしここに上げた3人は、自分が設定したテーマで、自分が選んだ被写体を、自分が望むように撮影し、自分で文章を付けていきますので、これは「ジャーナル」とはいいにくい。なので「ドキュメント」。被写体の記録でありつつも、実は自分の記録でもある、という意外に中途半端な立ち位置にあります。だから、原則として福田さんのように「足を洗う」ことはできません。

 それぞれの立ち位置はすなわち彼らの存在理由であって、江成さんは為政者側ではなく大衆側に立つ。橋口さんは、17歳の側に立っているように見せかけながら、その実、一般社会の側の常識人であろうとする。鬼海さんは、作家としての「写真家」であろうとする。都築さんは、写真家というより「編集者」。そんな違いもあるんじゃないか。そして、こうした立ち位置の違いも、それぞれの時代背景とその流れで理解できるでしょう。

 だからといって、今、そしてこれから、どのような作品やどのような写真が受け入れられるのかは、同時代の私たちには一切見えないのが、残念至極ではあるのです。