写真学校に話を戻します。

 私が入学した1984年に吉江さんの第21回準太陽賞受賞が決まり、翌85年には大西さんが第22回太陽賞を受賞しました。学内には大きく垂れ幕(ポスターだったかな)がかかり、重森校長も大喜び。学校中が高揚感に包まれていました。

 私は2年になり、学内の事情もなんとなく把握できるようになって、先生とも仲良くなり、別の学年の知人も増えて、一緒に飲みに行ったり、研究室にも時々遊びに行くようになります。そんな中で、今、そしてこれから流行るのは「ニューカラー」だ、というウワサを耳にするのです。

 当時、ギャラリーなどで販売されるようになった(ZEIT FOTOが先駆けで、これについてはいずれ)写真作品は、歴史的実績があるバライタ紙のモノクロプリントでないとだめ、という業界の常識があったのです。単純にいえば、当時のカラープリントや、新しく登場したモノクロのRC(レジンコート)ペーパーは、耐久性の面で劣るため、作品としては扱われないといったものです。

 しかし、技術の進歩によってカラープリントの耐久性がよくなり、タイトランスファー・プリント(3色分解した版をつくり、耐久性のある染料を使ってカラープリントを作る、いわば印刷や版画のような技術)などもそれなりに普及してきた背景の中で、いわゆる標準的で鮮やかなカラープリントとは一線を画し、作家の感性に従い、彩度を落したり、独特の色調をもたせたプリントが、主にアメリカのアートシーンで作品として扱われるようになったのです。「ニューカラー」はこれを広義にカテゴライズした概念です。

 つまりこれからは「ニューカラー」だ! バスに乗り遅れるな! といった雰囲気が一気に先生や学生の一部で流行し始めたのです。今思えば、アメリカのアートシーンで「ニューカラー」が受けいているから、日本でも・・・というのはどう考えても浅はかにすぎないのですが、しかし日本の文化の多くにこうした側面があることもまた確かですから、まあ、なんといえばいいか・・。

 そもそも、写真を芸術作品として流通させる環境そのものが日本にはない、といっていい状態にも関わらず、こんな浮ついたことをまことしやかに信じる私たちは、真に世間知らずであったといっていいでしょう。全部とはいえないまでも、学内の一部がそう信じきっているのですから、これはなかなか逃れられません。流行の病とはそんなもの。

 そうこうする内、次は「ニュートポグラフィー(地形学的な意味で使われていましたが、私は深く入り込まなかったので、いま一つ理解できていないし説明もできません)」だ! となって、そしてもう一つの分派は「TAKE から MAKE へ(写真は撮るTAKEものから、作るMAKEものだという意味)」、さらには「オリジナルプリント」こそが芸術作品だ! と、新しいモードが次から次へと登場してきます。そしてこの頃にはもう誰も太陽賞には関心を示さなくなっていました。

 時あたかも、バブル景気の入り口であって、日本国民の多くが財テクにのめり込み、金余りの企業は芸術・文化活動を支援する「メセナ活動」へと雪崩を打つように進み始めるのです。私自身は、月1万2000円の四畳半のアパートが取り壊しになるため、大家が紹介してくれた月1万8000円の六畳間へと引っ越しをした頃です。バブルの恩恵が私のような者にまで及んでくるには、あと数年待たなければなりませんでした。