別の視点から。まず出自。

江成さん・・東京経済大学経済学部卒業。毎日新聞東京本社に入社。

橋口さん・・鹿児島経済大学(鹿児島国際大学の前身)を中退して[]、19歳の時上京し、写真学校に学ぶ。その後、日本各地を放浪する。

鬼海さん・・高校卒業後、山形県職員を経て、法政大学文学部哲学科に入学、哲学者・福田定良の教えを受ける。大学卒業後、トラック運転手、造船所工員、遠洋マグロ漁船乗組員など様々な職業を経ながら写真を始める。

都築さん・・高校卒業後、上智大学文学部英文学科(アメリカ文学専攻)へ進み、在学中から現代美術・デザイン分野でライター活動を開始、『POPEYE』の創刊にも携わった。卒業後はフリーランスの編集者として『POPEYE』『BRUTUS』などで活躍する。その後、それまであまり被写体にされなかった東京の生活感あふれる居住空間を撮り『TOKYO STYLE』としてまとめ、写真家として活動を始める。

 現実に対する感覚。

江成さん・・この現実をどうしてくれるねん!

橋口さん、鬼海さん・・どないしたらええねん?

都築さん・・このままでええやん。

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 時代もさることながら、それぞれの個人がどのような人生を歩んできたかと、写真のニュアンスになんとなくつながりを感じることができます。

 ところで、写真学校は? といえば、太陽賞が下火になって以降、こうしたジャーナルやドキュメントとは距離をとるようになっていきました。この前段階として、広告(コマーシャル)や営業写真館は論外という扱いで、前回ちょっと触れたよう、「ニューカラー」「ニュートポグラフィー」「TAKEからMAKEへ」という具合のアメリカのアートシーンを追いかけることになります。言ってみれば、ファインアートに写真の未来がある、というような。逆に、当時の「現代美術」が「写真」を使った表現をすることが増えてきたこともあります。「現代美術家」と「写真家」が手に手を携えて、あたらしい「芸術」をつくりあげていく、そんな時代の流れになっていくのは、もちろんバブル景気の浮かれ具合をエネルギー源としていることに疑いの余地はありません。

 あと、写真学校が目指す方向として、「職人的」「工芸的」な写真を毛嫌いしていたこともあるように思います。当時のカメラ雑誌には、「写真歴○年」という、長くやっているほど偉いといった具合の経歴が記されることが多かったのですが、こうした意識に反感をいだいている人が多かった。ただ、ここが微妙なところで、「職人的」「工芸的」なものこそ「芸術的」というニュアンスもあるわけで、なので、うっかりすると、ジャーナルはだめ、ドキュメントもだめ、職人もだめ、工芸もだめ、芸術もだめ、という具合で、じゃあ、我々がやっていることって何の「写真」なの? という自己同一性に悩むことになります。

 というわけで、当時の我々は「シリアス・フォトグラフィー」を目指しているのだ、ということで共通した意識をもっていました。「シリアス」って、真面目といった程度の意味合いで、要するに我々は本気で真面目に写真をやっているだ、と思いたがっているだけのこと。冷静になれば、ドキュメントだろうが、写真館だろうが、広告だろうが、それぞれの立場で「シリアス」に取り組んでいるわけなのですが、あらゆる外部を否定することでしか、自分の存在意義自をみいだすことができないような状態になっていたのだと、今にして思います。事実、私自身、具体的な目的もないまま写真を撮り、作品を作りつづけていたような時期であり、常に虚無感を感じ、どこにも行く先を見いだせない隘路にはまり込んでいるようになんとなく感じていたのは、まあ、つまりこういうことが原因であり、結果でもあったのでしょう。

 こういう次第ですから、自分たちだけが「シリアス」だと思いたがっているだけの集団は、新しい何かを生み出すことはなく、結果的にはアメリカのアートシーンを追いかける、しかも本場の事情を抜きにして、自分勝手な理屈付けをして満足していただけなのです。考えを敷衍するなら、今だに敗戦の傷口をなめ合って慰めあっていただけじゃいなか? という情けなさにも通じます。

 これが、私の写真学校時代。当時の学生数は定員を大きく割り込み、さらに女性の比率は、1割未満という状態でした。

 私が写真学校を卒業して数年がたち80年末頃になると、カメラを手にする女の子が増えていき、90年にはHIROMIXが登場、若い女性のカメラブームが始まります。学生も半分以上が女性がしめるようになります。そしてまたしばらくすると、今度は中国・韓国などアジア系の留学生が増えていき、目まぐるしいまでの変化がおきていくのですが、この頃にはもう私は写真学校とは深く関わらないようになっていました。