「写真を学ぶ」といった時に、これは大きく「技術」と「思想」に分けられます。話をややこしくするなら、思想は技術を制約するし、技術の進展によって思想は変わります。卑近なところでいうと、たとえば「ピント」があった写真とそうでない写真の違いは、写真に関心のない人にとっては、ほとんど区別がつきません。極端にボケている写真でも、それがピンボケによるものなのか、ブレなのか、あるいはレンズの曇りによるのか、はたまた霧などの気象条件によるものなのか、区別はつきません。カメラを実際にピントを合せて撮影し、光学的な知識も身につければ、ピントの概念はより明確にわかるようになるでしょう。さらには、廉価なレンズで手持ちで撮影するよりも、性能のよいレンズを使って三脚にカメラを固定するなどして撮影するのでは、微細なピントの善し悪しに違いがでます。ここから先は、ABテスト的な比較をしないと区別はつかないレベルになっていくのですが、人の言葉を鵜呑みして高価なレンズに手を出すだけで、自分ではまったく区別がついていない、というケースも増えてきます。なので、ここから先は信じるか信じないか? といった宗教的な意味合いが増すわけです。「技術の進展が思想を変える」はこういうこと。

 で、一度ピントの意味がわかったら、ピントが合っている写真がよくて、そうでない写真はダメ、という価値観も一緒に身につけてしまうわけで、「技術が思想を制約する」はこういう意味。世の中全体にこうした価値観が蔓延した時に、「ピンボケでもいいよね」というアンチテーゼ的な価値観が登場するのが、いわゆるサブカルチャーといってよくて、森山大道さんあたりのアレ・ブレ・ボケのコンポラ写真などは、こういう路線で理解するとわかりやすいでしょう。

 「写真を学ぶ」時に、かつてはカメラの操作やモノクロプリントの焼き付けやら、技術的なことを身につけないと写真を撮影することができませんでした。しかし、こうした技術的な問題は、ダゲレオタイプから乾板、湿板、大判カメラ、中型カメラ、小型カメラ、コンパクトカメラ、使い捨てカメラ、そしてデジタルカメラ、スマホへと進展するに従い、技術のハードルがどんどん下がっていって、これに加えて、印刷やIT技術の進展につれて「報道写真」「スポーツ」「美容系」「芸術写真」などそれぞれの価値観も大きく変わってきました。いわば思想が技術の後追いをしていたわけですから、写真の技術は教えられるけれど、思想的なものは教えるのが困難、といわれていたのも仕方のないことです。

iPhoneで撮影した写真の方が、一眼レフで撮影した写真よりも、見た目の印象で勝るようになってしまった昨今では、完全にブラックボックス化した「技術」で十分満足できます。要は、写真画像の味付け(デジタルによる編集)によって、実物よりも印象が好ましくされている画像に満たされるようになったわけで、味付けをどんどん変えていくことで、その時代特有の流行りのようなものもできていくかもしれません。ちょうど自動車のデザインが、角張ったり、丸まったりするを繰り返すように。消費世界というのはそういうものであって、要はぐるぐる回してお金が動けばよいわけです。考えてみれば、自動車だって内燃機関から電気へと大きく様態が変わろうとしていますし、そもそも若い人たちが自動車を買わなくなっているという現状もありますから、ぐるぐる回すだけではやっていけなくなるのでしょう。

話がずれた。

「写真の思想」といえば、重森 弘淹さんが1972年に書いた新書があって、数年前に中古で買って時々読み返しています。半世紀前の本ですので、写真の例も、技術的な面も古いっていえば古いのですが、ちゃんと地に足をつけて考えている感じがしっかりあって、遅ればせながら、さすがだなぁと感じ入っています。でもまあ、デジタル時代には、過去の遺物としか思われないのでしょうが。

そうそう。先日、「鶏卵紙」を試していてうまくいかないので理由を知りたい、教えてくれないか?という29歳の青年が来ました。写真の学校に行ったわけでなはいけれど、プロとして仕事をしているのだといいます。もともとは美容系の学校に通ったけれど、ドロップアウトして写真の道に。コマーシャルスタジオで勉強して、独立という経緯。

「デジタルになって、誰でも写真が撮れて、編集でなんでもできるようになった時代だからこそ、面白いんです。絵画(フィルム)しかなかった頃に写真(デジタル)が登場して、絵画(写真)が変わったように、これからさらに大きな変化が訪れるんじゃないですか?」

出自も経験も時代も違う世代の登場。老兵去るべし、ですな。