フォトジャポンは1986年10月号をもって休刊になりました。9月売り。最終号の前の号あたりで、私はフォトジャポンのアルバイトを辞め、コマーシャル写真を撮影していた「スタジオ・ハラ」のアシスタントをはじめます。なので、多分、7月頃。
写真学校でお近づきになった先輩、伊奈英次さんが以前アシスタントをしていたスタジオで、伊奈さんの後に浅野君というムービー系の学校を出た人がアシスタントをしていたのですが、彼が辞めるということで、私が後継として投入された次第。
スタジオ撮影のことは全く知りませんでしたし、写真撮影の仕事をするということすら初めてでしたから、数カ月くらいは引継ぎというか、私の教育のため浅野君は私と一緒にアシスタントを続けてくれました。彼は、私よりも4~5歳下なのですが、アシスタントとしては私よりも先輩にあたります。なので、この頃は「浅野さん」と呼んでいました。後に私自身もスタジオを辞めてしばらくしたころには「浅野君」と呼ぶようになったはず。お互い、こっちの方が楽ではあったように思いますが、彼の本当の気持ちはどうだったか。
スタジオ・ハラは、原 弘男さんというカメラマンの個人スタジオで、カメラやステンレス製のピカピカの食器、宝飾・化粧品などの、いわゆるブツ撮りをメインに撮影していました。JTBの雑誌「るるぶ」での旅の写真も撮影することもありましたが風景がメイン。人物撮影はほとんどなく、すごく苦手だったようです。
ここに掲載したマミヤのカタログは、撮影時のことを少しだけ覚えています。私もアシスタントに大分慣れたころで、地図の上にカメラやレンズ、コンパス、ナイフ(これは原さんの所有物)などをあらかた配置したのは私。中面に写っているカメラを持つ手は、浅野君の手。私の手は男っぽくゴツゴツした感じなので手タレには向かないのですが、浅野君のはちょっと女性的というか中性的な感じでしたので、よく手タレとして動員されていました。
ブツ撮りは4×5カメラを使い、がっつりライティングをして撮影します。なので、ここに勤めている間に商品撮影の基本を学ぶことができました。4×5カメラは、アシスタントがレンズ周りの操作をする流儀で、原さんがフィルムを交換しレリーズを手にする間に、絞りを1/2段ずつ動かし、シャッターチャージをし、OKサインを出す、という一巡の手続きをスムースに行なえるようになるまでは、気苦労の連続でした。
何も教えないにも関わらず無茶な指示を出して、それができなければ怒るという体育会系。「仕事は全てアシスタントがやり、自分はシャッターを押すだけが理想」というような事を時々口にしていました。口には出しませんでしたが「あなたに対して、やりたくはないなぁ」と心の中で密かにつぶやいていました。
ライティングはタングステン。最大2キロWの天吊りのトップライトと、左右に500Wのフラッドランプを使う、3灯が基本でした。変圧器で正確に100Vにして色温度を正しくするのですが、ライティング中は70V くらいにして省エネにすると、ランプの寿命を長くしていました。スタジオは全部で10坪ほどで、照明のセットを組むと、ライトスタンドなどで足の踏み場にも困ることがあり、うっかりしていると高温になっているランプに手や腕が触れて火傷することもありました。ディフューザーのトレーシングペーパーも、時々焦げていました。
「火傷は勲章だよ」などと伊奈さんにも言われ、当時はそんな世界なんだな、と納得していました。ストロボのモデリングランプじゃ暗くてライティングの詳細はわからないし、今のようなLEDもありません。がっつりライティングをするには、タングステン照明しかなかった時代です。