太陽賞についてはwikiから下記。

「1964年(昭和39年)に、平凡社が前年に創刊したグラフ雑誌『太陽』の創刊1周年を記念して創設した賞。写真の中でも「組写真を対象としたドキュメンタリー」を対象としていたことと、基本的に新人・若手カメラマン向けの賞であったことが特徴。賞の母体となっていた『太陽』が2000年に休刊になったため、本賞も前年の1999年(第36回)を最後に休止された。」

第1回が荒木さん、第8回に土田さん、第16回に福田さん、第18回に橋口さん、あたりが私が知る有名人。第20回の横山良一さんのことは以前触れましたが、私が写真を始めて以降、この賞を知って一番最初にリアルタイムで見た受賞者で、このときの候補に岩月尚さんがいました。第21回の吉江さんは私が写真学校に入っすぐに受賞した研究室の方。第22回(1985年かな)の大西みつぐさんは写真学校に入る時の面接を担当した方で、その後もいろいろお世話になりました。ニコンでアマチュア向けの講師などもされているので、アマチュアには良く知られた存在かと思います。で、第32回の桃井さんの太陽賞が最後になります。

 こうして並べてみて改めて、私が写真を本格的にスタートさせた頃、太陽賞を強く意識していたことを思い出します。坂出のナガタカメラの長田さんが「太陽賞こそ、プロへの登竜門だ」と教えてくれたことも影響しているでしょう。そして、写真学校1年の時に吉江さん、そして2年の時に大西さんが受賞され、学内にも大きく掲示されていたことも思い出しました。校長である重森さんもたいへんな喜びようだったと記憶しています。

 しかし実のところ、受賞はしたものの、それで仕事がどんどん舞い込むようになったという話もなく、写真関係以外の知名度が上がったわけでもないなぁ、と、私は初学者ながら(であるからこそ?)冷静に受け止めていたことも事実です。だから多分、自分は応募しようという気分にならなかったのだと思います。最初っから無理と諦めていたのかもしれませんが。

 事実、吉江さん、大西さんの受賞から10年して「太陽」という雑誌そのものがなくなり、太陽賞も終わってしまいました。今は別冊太陽として継続し、上質の写真と文章で、正統的なグラフジャーナリズムを継承しているようですが、いわばお上品なクォリティペーパーであって、初期の「太陽」の頃はあっただろう一般社会的な力を失っていしまったといっていいと思います。

 センセーショナルなジャーナリズム雑誌「FOCUS」の創刊が1981年で、2001年に休刊することになるので、2000年ころを境に、「雑誌×写真」の訴求力が一気に落ちてきたのでしょう。読者の興味が、インターネットからの情報に置き換わった、という具合に考えた方がわかりやすいといえばそうかもしれません。

 あと余談のようになりますが、1995年は女の子フォトグラファーとして彗星のごとく登場した「HIROMIX」がキヤノンの写真新世紀のグランプリを最年少で受賞しています。フィルムカメラがさらに使いやすくなって普及し、これまで男の子の文化だったカメラが、女の子の文化の象徴として定着し始める時期です。彼女らの被写体は、自分および自分の身の回り数メートル、と言われたように、かつて海外や社会的な問題にカメラをもってアプローチをしていた(男性的な)写真の方法が、この頃から大きく変貌していくことになります。

 が、その前に、福田文昭さん、橋口穣二さんの思い出を少し。・・次回につづく。