『懲役4年 裁かれる「収賄総理」福田 文昭、立花 隆 ()(著) という本は次のような言葉で紹介されています。

 「83年10月12日、ロッキード事件・丸紅ルート判決公判の法廷内部をドイツ製小型カメラ・ミノックスLXで「牢屋に入れられても」という決意で著者が隠し撮りした衝撃的写真集。法廷に立たされた田中角栄の写真が公表されるや田中弁護団は名誉毀損で訴えると記者会見した。」

 ミノックスについてはこちら。1936年エストニアで開発されたカメラで、いろいろ歴史があって、LXは1987年の発売。福田さんはこれを使っていたのですね。

 1983年の私は会社員2年目。FOCUSの創刊は1981年。法廷内(当然だけど撮影不可の裁判所内です)での田中角栄を撮影した福田文昭さんの写真は、まさに衝撃的で、FOCUSは相当売れたんじゃないかなぁ。法廷内の田中角栄を写真で見ることに、いったい全体、どんな意味があるのか? は当時から疑問でしたが、「隠されているものを暴く」ことは人々の歓心を買う。これは確かな事実です。で、福田さんは、この後も芸能人のスクープなども多くモノにして、時代の寵児のようになっていました。当時は「パパラッチ」という言葉はありませんでしたが、ふいに写真を撮ったり撮られたりすると「FOCUSされた」とかいってわいわい喜ぶような流行語になっていました。

 写真学校に入った年だったか、この福田さんのセミナーのようなものが開催されるというので、確か池袋サンシャインに出かけたのです。横10人以上、縦に20列以上はいりそうな会議室でほぼ満員でしたから、200人くらいは参加者がいたはずです。お金はなかったので、無料だったか、格安だったのでしょう。話は、ぜんぜん面白くなく記憶にも残っていませんが、スクープを撮るカメラマンになるための学校のようなものを開設するので入りなさいというような宣伝がメイン。受講料がかなり高くて(貧しい自分の感覚ですから、それほどでもなかったかも)、これで興ざめしてそそくさと部屋を出ました。それにしても当時は、福田さんの人気も、スクープを撮るカメラマンの人気も絶大なものがありました。

 もともと、スクープや報道には関心がありませんでしたので、福田さんのこともこれっきり忘れてしまっていたのですが、これから10年くらい経って、日本カメラの連載の関係で「ミノックス」に関心を持つようになり、このスパイカメラにハマりました。B型の中古を何台か購入して、フィルムカッターや現像タンクなんかも買ったのです。これらは、銀座にあったノックスフォトサービスで買い、お店の人とも仲良くなっていろいろ相談に乗ってもらっていたのですが、ふとした時にこの店員が「福田さんの角栄の写真を撮影したミノックスは、この店で貸し出したカメラだったんです。借りたカメラであんなの撮って、有名人になっちゃって・・・」と、ねたみ含みの言い方をしていたのが記憶に残っています。本当かどうかわかんないんですが、話しっぷりからすると本当っぽかった。

 それからしばらくして、新聞記事かなにかで、この福田さんが「赤ちゃん写真館をはじめる」みたいな記事を見つけて、この転身ぶりに驚いたことも覚えています。人間関係どろどろのスクープ写真から足を洗って、家族の幸せな写真を撮るようになったのかなぁ、などと勝手に想像していましたが、これも本当のことはわかりません。2016年には、こんなWEB記事も残っています。プロフィールはこちらに。

そうそう、『青春ふたたび帰らず69新宿カミナリ族は、いま』(第三書館)で第16回平凡社準太陽賞受賞 で福田さんを思い出したのでした。

 カミナリ族・・・。バイク乗りの集まりで暴走族とは違うのですが、一般の人にとっては迷惑な連中というだけで、わからないかもしれません。

 ちょっと余談ですが、1970年代後半、高専の頃。カワサキから販売されていたマッハというバイクがあって、同級生が中古で入手し、時々借りて乗らせてもらったりしていました。マッハについはこちら。2ストローク、三気筒の500ccが定番として知られていたのですが、我々は中型免許の制約があったので、350cc。世界最速の市販車を目指したと言われ、wikiの解説から抜き書きすると、「操縦性においては少ない前輪荷重などが災いし、万人向けとは決していえないもので、他社種に比べ高い事故率を示すことがメディアで報道されるなど、「乗り手を選ぶ」バイクというイメージが世界各国で定着した。」とあります。当時「後家さん製造機」とまで呼ばれていたほど、危険きわまりないバイクで、だからこそ、若人は燃えたのです。この「燃える」を今の漢字にすると「萌える」で、この違いで時代の雰囲気がよくわかりますが、こんなのが、普通に売られ、普通に乗られていたのです。今、相当に荒々しい時代のように思い返すことができますが、当時はそれが普通でした。

 バイクもカメラも、今のような電子制御ではなく、メカメカした機械でしたから、バイク好きとカメラ好きはかなりの確率でオーバーラップしていました。

 写真の話。

 要は、一般社会とは違う社会で生きる(生きざるを得ない)人たちが多くいて、その間のグラデーションも豊かであって、彼らの写真を撮ることに社会的(商業的含む)な意味を見いすことができた時代だったのです。いわゆる報道とも少し違うし、社会学・民族学的なアプローチとも違う、そんな一つのジャンルが成立していたのです。大雑把にはジャーナリズムといっていいのでしょうが、社会的に認知されるかされないかといった宙ぶらりんの写真家や作品が数多く量産されていて、こうした写真の発表の場が、カメラ毎日であったり、太陽だったといっていい。そしておそらく、私自身の「写真観」はここにルーツをもっているのでした。

 そして、「一般社会とは違う社会で生きる(生きざるを得ない)人たち」は、徐々に不可視化していき、写真という目に訴えるメディアでは表現できなくなってきたのではないか。だから、カメラ毎日や太陽は、その意義を失ってしまったのだ、といっていいんだと思うのです。

 一つには、当時に比べてはるかに経済的に豊かになり「一般社会とは違う社会で生きる(生きざるを得ない)人たち」の絶対数が少なくなってきた裏側で、この国で生きる人々が均質化し、そうでない人々の存在を隠し、見ないようにしてきた事実もあるのでしょう。「隠す」「見ない」「存在を認めない」という環境に、ジャーナリズムはどんどん生息域を失っていく。宙ぶらりんのジャーナリズムは、その存在意義や魅力を、社会的にも個人的に失っていく・・・。とまあ、このような流れに、私自身も乗っていたのです。