
写真学校を卒業してはいましたが、広告撮影、商品撮影、人物撮影など、およそ仕事に結びつく技術は一切身についていません。学校で何を学んだのだろうと思い返すと、ストリートスナップ撮影と「芸術写真に対する考え方」がメインだったように思います。写真学校の「芸術写真に対する考え方」については、機会を改めましょう。
そんな次第で、仕事の撮影についてはまるで知識がなかった私ですから、ライティングと商品撮影の基本は全てスタジオ・ハラで学んだことになります。結果的に半年でクビになりましたので、それで十分だったのかどうかはわかりません。
考え方が分かれるところでしょうが、「アシスタントを長くやり続けると、自分自身の判断で撮ることができにくくなる」という事実はあるように感じます。先生の判断に従わなければならないことと、アシスタントが複数いる場合は、その中の序列と関係が、思考の中に染みついてしまうのです。なので、いざ自分の判断で撮れるようになっても、先生の思考の外にでるのはなかなか難しい。「仕事」ということであれば、先生からの継続性もあって、それはそれでよい面があるのかもしれません。
結果的に、自分にはそれができなかっただけの話で、善し悪しは別問題です。
浅野君が辞め、私自身少し慣れてきてからも、原さんとは良好な関係で仕事ができていたのですが、4カ月を過ぎた頃から少しギクシャクし始め、5カ月目にはほとんど会話もせずに仕事をしていたように覚えています。そうこうする内、「久門、来月、辞めてくれないか。それがお互いのためだ。」と口火を切られました。私もうすうすそのように感じていましたので、「そうですか。わかりました。」と即応したわけですが、その返す口で「半月以上前にクビにすることを伝えれば、法的には問題ないんだ」と言われて、「ああ、やっぱりこの人は・・・」と少し虚しくなったことは事実です。
だから、お互い人格的な不和はあったものの、ケンカ別れでも、逃げ出したわけでもなく、円満といえば円満退職。ただ、クビにされたのだからもう会うこともないだろうと思っていました。しばらくして、私が辞めた後に浅野君が再雇用されたことは、伊奈さん経由で知りました。
そうして、3カ月ほど過ぎたころだったか、原さんから突然「久門、手伝ってくれないか」と電話があったのです。聞けば、人物撮影をして欲しいといいます。野球部の高校生3人のポートレート。その一人が、原さんのご子息であって、もともとも人物撮影が苦手なのに加え、自分の息子を撮らなければならないというストレスに耐えきれなかったのでしょう。頼られたら嫌とは言えないので、快諾し、撮影しました。まあ、ずいぶんな緊張をしながらの撮影になりましたが。
この一件があってからは、お会いしていません。
確か10年くらい前に池袋に行く用事があり、思い立って大塚まで足を伸ばし、いつも通っていた道を辿ってスタジオがある場所まで行ったことがあります。スタジオを辞めてから四半世紀が過ぎていました。いろいろあったけれど、お会いできたらいいな、と思っていたのですが、スタジオは看板も下ろされシャッターは下りたままで、他のテナントが入っている様子もありませんでした。
「もう辞められたんだな」と。時が経つのは速く、あらゆることはこうやって少しずつ世の中から忘れられていくんだなと、ちょっと寂しいような思いをしながら、しばらく看板があった部分を眺めていました。



