1985年。「つくば科学万博」は通称で、正式には「国際科学技術博覧会」というそうですが、この博覧会に時期を合わせて作られたのが「つくば写真美術館」」で、この本はそのカタログになります。

「つくば写真美術館」の大枠を知るにはこちら。会期は、1985年の3月9日から9月16日。

「期間中の来場者数は伸び悩み、この展覧会のために用意された3万部のカタログは、3000冊が売れ2000冊が献本されたものの、6分の5にあたる残りの2万5000部が廃棄処分となった。」とは初めて知りました。

85年の私は24歳で、写真学校の2年生の春~秋。上京して1年を少し過ぎたころですので、まだまだ土地勘もなく、つくばは果てし無く遠かったです。学校の少し先輩にあたる人たち4~5人ででかけたのです。学校の先生であり、本美術館にも関わっていた谷口 雅さんが連れて行ってくれたのかもしれません。ワタナベオサムがいたことは覚えていますが、他の人たちの記憶はほとんどありません。谷口さんが一緒だったので石原さんにもお会いしているような気もしますが、この記憶は後で作ったものかもしれません。

このカタログは、美術館で買ったか、あるいはいただいたものか。それすら覚えていないのですが、写真の歴史から始まり、世界中の芸術写真全般を一望できる一冊であり、写真は30に小分けされ、それぞれに付された評論もそれなりに分かりやすく、何百回となく見直し、読み直しました。なので、私にとってこの一冊は写真のバイブル的存在となりました。普通にカメラマンをしている人に比べると、いわゆる芸術写真に関する知識が多いのは、この一冊のお蔭です。

しかし今、久しぶりに見直してみると、それぞれの写真に対して「郷愁」こそ感じるものの、かつて雲の上の存在から感じられていた「憧憬」の類は、微塵もなく消え去っていることに、幾ばくかの寂しさを感じます。歳をとったんだな、といえばそれで片づくことではあるのですが、当時の憧憬の目は、これらの写真に写っている被写体とその写し方、つまり表面的な構図、絵柄、色彩・・・だけを見ていたに過ぎなかったのだろうということだけは確かな手触りをもって理解できます。

憧れのアイドルに夢を見る。そしていつか、アイドルも一介の人に過ぎないことがわかったとたん、夢から覚める。興醒めする。・・・こんなのに近いかもしれません。

ここに見ることのできる写真に歴史的価値や芸術的価値、社会的意味があることは十分にわかっているつもりだし、事実そうなのでしょう。しかし今、本当のことをいうと、これらの偉大な写真よりも大事な写真というものが、私にも多くの人々、それぞれにあることを、私は知っています。それは、私自身が写っている写真であり、家族の写真であり、友人知人が写っている写真です。つまるところ、これは私が今、仕事にしている写真館の価値観なのですが、これとこの本にある芸術写真の価値観との間に、深く、相いれない間隙があるように感じるのですが、それはこの本のTOKYOの項目に、そうした視点が明らかに欠如しているからにすぎません。いや、この話はまたいずれちゃんと整理しましょう。

あ、そうそう、NEW YORKの比較的新しい写真の項目に、「ニューカラー」、「ニュートポグラフィー」を見つけて、これまた懐かしく思い出しました。写真学校の1年の終わりくらいに、研究室の先輩たちがこぞって「これからはニューカラーだ」といい、しばらくしたら「次はニュートポグラフィーだ」と、次から次へと衣替えするかのように、写真の表現技法(じゃないけど)を新しくしていました。今思えば、まるでファッションの流行やカメラの新機種を追いかけるようなものだったのだなぁ、と。

石原さんのこと

石原さんの遺品の眼鏡

石原さんが経営していたZEITに初めて足を踏み入れたのは、写真学校1年の時。担任であった写真家の春日 昌昭さんが、「伊奈英次という卒業生の展示会をやっていて、いい作品だから見に行くように」と言われて日本橋、八木長ビルの5階くらいにあったギャラリーに行きました。8×10カメラで撮影した精緻なモノクロプリントで、東京の都市景観を撮影したものです。かっこよかったなー。

後に伊奈さんと懇意になって、彼を通じてZEITに出入りするようになり、石原さんにも紹介していただきました。本気で「写真作家」を目指していたわけでもなく、写真の回りをうろうろするのが好きだという程度でしたが、それからしばらくして作品を見ていただき数点買っていただいたのは、ちょっと恥ずかしい思い出にすぎません。

「久門くん、このプリントにサインをしなさい。僕の万年筆を貸してあげるから。」と言われ、何回も何回目も練習をしてプリントの右下の隅に書きました。石原さんの目の前でしたらずいぶん緊張し、自分でも信じられないくらい弱々しいサインになってしまいました。多分、こういうのを見て、石原さんは、「こいつはダメだな」なんて思っていたかもしれません。

この時に書いて失敗したプリントの一枚は手元に残っていて壁に飾ってあり、このサインを見る度になんでもっとドーンと大きな気持ちで書けなかったものか、と、今も残念がっています。

伊奈さんは、ZEIT-FOTO SALONの主要作家の一人でしたが、石原さんの仕事の手伝いもしており、石原さんが海外で買いつけてきた写真の複写もしていました。後に、この仕事をやらせてもらったあたりから、ZEITが花と緑の博覧会や、名古屋のデザイン博覧会などに出品する作品の運搬の手伝いなど、使い走りのようなアルバイトをしばらくさせていただきました。

博覧会ブームはまさにバルブ経済まっただなかであり、後に写真美術館濫立時代がきます。この頃から、私はZEITから足が遠のきました。なぜかは、よく覚えていません。