写真を撮る立場からすると、こういう楽しい写真がいいなぁ、撮っていて楽しいなぁ、といつも思うのです。
がここは立場を変えて、写る側になって身銭を切るとなると「ちゃんとした」写真にしなければなりませぬとばかり、真面目な伝統的な家族像を引きずってしまいがちになる国民のなんと多いことか・・・(チコちゃんの塚原さん風に)。

もちろん「ちゃんとする」という言葉そのものに「正しい状態にする」という意味があるわけですが、そもそも「正しい家族」の中にこそ「仲のよい家族」が含まなければならない、という逆転の発想だってあってしかるべきでしょう。
「どこに出しても恥ずかしくない」ということもあるでしょうが、型に嵌まった堅苦しい家族像を出してよいのは、お受験の時くらいです。それだって、権威に従順な家族であることを表面的に演じることで、自分たちの将来の立場を獲得しようとする下心のなせる技といってよいと思います。

もし自分たちの家族の写真を気のおけない友人知人に見せるとしたら、楽しくふざけ合える家族のイメージを提示したほうが、うらやましがられるに違いありません。

こうした意味で写真は、誰が誰に見せるかによって「意味」や「価値」が変わるのですね。そこに絶対的な「意味」や「価値」があるわけではないです。
ならば、自分たち家族で楽しみ、未来に残す写真は、どれほどか遊べて、笑って、楽しいイメージの写真である方がよい、という結論に至るわけす。