2015-08-21 11-42-20

本日8月21日(2015年)朝のフジテレビ「ノンストップ」で、若者向けの新しい写真撮影サービスが人気という話題が紹介されていました。
自分たちのデートをプロカメラマンに撮影してもうらサービスだそうで、一月に120件もこなしているとか。社長は21歳、大学在学中とかで、登録しているカメラマンも若い人がわんさか。1回の撮影は2時間程度。1万円+一律交通費でデータ渡し。カメラ機材はカメラマン持ちでしょうか。アルバイト感覚ならよい感じ。相応の年齢のカメラマンには勤まりませんよね、多分。写される方も、気が重くなりそうです。
面白いビジネスを考えるものだなぁ、というのと、自分たちを写真で残す感覚がずいぶん変わりつつあるのかなぁ、という両方を強く感じました。「自撮りはパターン化しがちなので、人に撮ってもらった方がいい。」とあっけらかんに応えていた浴衣姿のカップルの気持ちとは裏腹に、「分かれちゃったらその写真はどうすんのよ」とのたまう年配のおばさん方の路上インタビューも、わからないではない理屈でした。
面白いなぁ。

このサービスを良しとするか、そうでないとするかは、おそらく年齢はあまり関係なく、写真に対する「正式さ」や「公」性みたいな感覚や、「家族」や「個人」の違いをどう理解しているか、によるのではないかと思います。あとは、仕上がる写真のイメージの相性くらいか。

いわゆる正式な家族アルバム(その頂に輝くのは『皇室アルバム』でしょう、きっと)には、元カレ、元カノの写真は出てこないわけです。家族アルバムの主題は「家族」なのですから、昔の彼や彼女、今の浮気相手などは登場する余地も余白もありません。そうはいうものの、「分かれちゃったらどうするの」のおばさんだって、もしかするとこっそり元カレの写真をタンスの奥底にしまってあるかもしれません。ただ、家族アルバムには貼らない。もしもそれが周知の事実だったとしても、それはなかったものとして振る舞うことが要求されています。それに反すると、運次第、やり方次第で、誰かの怒りを買うことさえあります。善し悪しは抜きにしてでも、こういう感覚は私自身の中にもありますし、多くの日本人に共有されているんではないかと思いますが、どうでしょう。これもまた「空気を読む」のに似ているかも。

少し記憶は怪しいんですが、南米あたりのアルバムは、離婚再婚しても、前家族のアルバムを捨てず、新しい財産として認め合うというような話がありました。元カレ、元カノ、前妻、前夫、も、その個人の歴史の一ページには違いないわけですから、「家族」アルバムというよりも、これは「個人」のアルバムだと考えれば、別に驚くことはありません。それだけでなく、失敗の過去もその個人に属していると「新しい家族」みんなでお互いに認め合うことを前提しているとすれば、これはまったくもって申し分がない理想的な習慣だようなぁ、と思いました。そもそも、何を人生の失敗とするかは、その後の人生で変わるはずです。だとしたら、「自分の歴史を捨てて省みない」ことは、キレイさっぱり生き直す潔さということもできましょうが、その反面、歴史から何一つ学ばないことを意味しているわけですから、必ずや同じことを繰り返すことにつながるのでしょう。

 ここまで来ると、私たちが「当たり前」と考えている家族アルバムは、異なる視点から見れば「かなり風変わりなもの」なのかもしれない、と思う余地がでてきます。私たちが考える「家族アルバム」は個人が家族に従属していることを前提としているわけで、かの国のアルバムは、個人が集まって家族になっている。だとするなら、これはただの習慣というよりも、国家的な思想の問題といっても言い過ぎにはならないかもしれないなぁ、とか。

 いささか大風呂敷を広げすぎていますが、根っこは、いろいろ多岐にわたるような気がしてきましたので、少しずつ考え続けていこうと思います。
(久門)