1986年頃。「日本ポラロイド」があった時代。もともとはデビッド・ホックニーの作品に感化された写真学校の学生たちが、ポラロイドを使って作品を作っていたのです。四角い画面はSX-70、横長(縦長)は、4×5のTYPE59です。日本ポラロイドのギャラリーが虎ノ門にあって、写真学校にフィルムを提供して作品展を開催したこともあり、これでずいぶんフィルムを使わせていただきました。下地に布を使ったものは、このときの展示に使ったそのままの状態です。そうそう、この布は、インドに行った時に現地で買って履いていた腰巻きの布だったのです。
それぞれの写真をクリックすると大画面で見られます。ブラウザで戻ってください。
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名探偵ポラロ(1996年頃)
ベネッセ・コーポレーションから『GOODY』というアウトドア雑誌が出版されたのが1996年5月。この創刊以前から懇意にさせていただいていた編集者から声がかかり、「なんか面白いことしたいよねー」と、アウトドアを散策しながら見つけたものをポラロイドで撮影し、それに俳句を添えて掲載することに。
何を勘違いしたものだろうか?
連載タイトルは考えに考えぬいて、「名探偵ポラロ」に。
今見返すとなんとも恥ずかしい限りなのですが、これも我が歴史ということでどうかご容赦願いたし。
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ニューカレドニア&バヌアツ(1989年)
1989年は平成元年。この年の11月にダイヤモンド社からでた『地球の歩き方 ニューカレドニア・バヌアツ』の取材のため、夏の1カ月間は現地を旅しておりました。当時のニューカレドニアといえば「天国にいちばん近い島」で知られる新婚旅行のメッカ。政府観光局のバックアップもあり、たいへんに優雅な取材旅行を堪能させていただいたのは、いい思い出です。
ここに掲載するのは、取材を兼ねながら撮影した写真(35ミリスライド)が相当数あり、この一部をポラロイド タイプ59(4×5サイズ)で再撮影して、マーメイド紙に転写したものです。天国にいちばん近い島でも、新婚旅行のメッカでもない、不思議な場所に見えます。
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秋葉原ラプソディ(2002年)
秋葉原が未だ「電気街」で、歩行者天国もあった時代。中東方面から出稼ぎに着ていた人々も多かったと記憶していますが、いま一つ思い出せない。これらの写真がなかったら、記憶の淵に沈んでいたかもしれません。
翔泳社から秋葉原をテーマにしたムックが出版されるということで、依頼されて撮影したのでした。本はどこかにあるはずなので、出てきたらタイトルなどを記したいと思います。4×5カメラは、カンボWIDEだったか。フジのクイックロード(Quick Load)が登場してしばらくしたころで、確かコダックが後発で出したレディロード(READYLOAD)を使ったのだと思います。それぞれのフィルムの右端にフィルムホルダの枠が見えないのがその証拠。
しかし、記憶が怪しくて困ったものです。
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泣き顔展(2003年)
有楽町ドイフォトギャラリー。写真道場10年目。ドイフォトの那須川さんから、ここで写真展やらない? と声をかけられて、急遽企画を考えて撮影~展示までこぎ着けたのです。
写真館で撮影する写真は、基本、笑顔か真面目顔で、子供が泣きだしたりしたらさあたいへん。どうにかこうにかあやして、それでも駄目ならおやつ作戦。それでも駄目ならとにかく時間を掛けて泣き止むのを待つ。それでもダメなら、撮影を延期しましょうか・・となるわけで、泣き顔は基本的に撮りません。
なので、「泣き顔」。誰もやらないだろう企画ということで、お客さんらに声をかけ、泣いてくれる子供たち、大人たちに参加していただいて撮影しました。思った以上に、お母さんたちが協力的でしてね。
「子供の写真は沢山撮ったけれど、子育て中に泣かれるとそれをあやすのに一生懸命になって、写真を撮ってなかったわー。泣き顔もかわいいのよね...
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INDIA・Varanasi(1985年)
24歳。会社を辞めて2年目、 写真学校の2年生。退職金をはたいて初めての海外旅行でインドに行きました。『地球の歩き方』だけが頼りで、そのツアーに参加したのです。夏休み、1カ月の旅。
目的地はヒンズー教の聖地であるベナレス(ヴァラナシ)のみ。目的は「死」をこの目で見ることで、だからベナレスしか眼中にありませんでした。「死」を写真に撮るということではありませんが、これは今の私の仕事にも繋がっています。
当時買った初版本は未だ手元にあります。右下のFOCOSは別のムックです。
旅立つ前年の1983年は、藤原新也さんの『メメント・モリ』(情報センター出版局)が出版された年です。この2年前には新潮社の雑誌FOCUSが創刊されています。今はもう過去のスキャンダラスな雑誌ですが、WIKIに「創刊当初は、有名写真家を使った芸術性の高い雑誌を目指したものの、低迷した。」とあるよう、それな...
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第2回期待される写真家20人展(1990年)
約30年前の1990年。渋谷パルコが開催していた「期待される写真家20人展」の2回目の一人に選出されてこの展示会に出品し、カタログにも掲載されました。NHKのニュースでも取り上げられ、私もちょっとだけ取材されました。ちょうどオープニングパーティの時で、いい背景がないからという理由で、トイレ入り口の緑の前で収録されたのです(どこかにビデオがあるはずなので、発掘したら掲載します)。
さて、この写真展。企画者として高橋周平氏の名があります。氏は、福武書店から出版されていた「PHOTO JAPON」の元・編集者で、私自身もずいぶん懇意にさせていただいていた方です。
ここで本題から離れますが、「PHOTO JAPON」の思い出を少し。
「PHOTO JAPON」は、福武書店(現・ベネッセコーポレーション)がフランスの「PHOTO」という写真雑誌と契約し、その日本版という位置づけで出版し...
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1984・夏(1984年)
1984年。私、23歳。高専卒の20歳で就職し、丸3年目の春に退職して上京、日吉にある東京綜合写真専門学校(夜間)に入ったのです。その年、日々の写真を撮って一冊にまとめる、という夏休みの宿題で作った写真集です。主に田舎に帰省して撮影した写真で構成しています。「日録」という呼び方をしていました。宿題とはいえ、今にしてみれば最高の思い出になる写真集になりました。
写真は、整理してまとめておくべきですね。ばらばらの写真だったら、残っていなかった可能性が高いです。モノクロフィルムは多分、コダックのトライX。印画紙は、三菱の「ヒシコピーCHペーパー」。そのまま製本できる薄手の印画紙で、これは学校の指定でした。
当時は未だ瀬戸内海大橋が架かっておらず、高松~宇野をフェリーで渡っていたのでした。宇高連絡船ですよ。船の中で立ち食い讃岐うどんが販売されていて、ほとんど素うどんなのですが、それが却って旅情をか...
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絶対心霊写真・展(1999年)
まず若い人向けに、「ポラロイド」はこちらを参照。
1999年当時、虎ノ門に日本ボラロイドという会社があって、その一階に写真ギャラリーを併設していました。もちろんですが、ここに展示されるのはポラロイドフィルムを使った作品だけ。かなりアート寄りな作品展示が多かったのですが、ここで私が開催したのは「絶対心霊写真・展」でした。
使ったのはポラロイド タイプ55(4×5判)。ネガとポジが分離できるもので、ネガは亜塩酸ナトリウムで定着処理すれば、長期保存できました。なので、まだこのネガは手元にあります。
「心霊」写真は、多重露出と長時間露出で撮影した他愛もないものです。が、一発撮りなので、どのように写っているのかは現像が終わるまでわからず、フィルムをめくった時の驚きがなんとも言えず楽しいのですよ。上手くできたらみんなで「おお~こわ~。ほんものみたい~。」とかいって喜ぶわけです。こういうのは、ポラロ...
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笑う寿像・展(1998年)
写真道場から「遺影を撮りませんか?」とお声駆けした三十六人のポートレートです。ご年配の方だけでなく、若い人もたくさん。「死」は誰の身にも起こることですからね。というよりも、まだまだ死が遠いと思える若い方の方が入りやすいのかもしれません。相応の年齢になると自分では考えたくなくなりますし、回りからも声駆けできにくくなります。そうそう、ここに写真はありませんが、山本監督も写させていただきました。
20年という年月が経ちましたので、この時撮影させていただいた方の何人かは亡くなられ、これらの写真が使われました。お二方ほど、この時の写真が行方不明になって見つからなくてねぇ、というご報告もあり。いい写真を1枚準備する、というのでは、いざという時に役立たないこともあるのです。写真は複製していろんなところにばらまいておくのが一番です。
当時は「遺影」を撮るということはかなり特殊なことでしたが、20年経った今...
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